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関ヶ原合戦 陣形図 |
慶長5年(1600)9月15日 午前8時 開戦時の陣形 |
西軍 | |
石田光成 | 笹尾山に布陣した石田三成隊。 詳しくは、笹尾山の詳細ページをご覧ください。 |
島左近 | 陣の場所(地図)(笹尾山の前面) 三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる左近です。前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。黒田・田中隊と奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討ち死にしたともいいます。鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は諸書に様々な姿で描かれています。(現地説明板より) |
島津惟新(義弘) | 陣の場所(地図) 戦国の雄・島津軍団千人を率いた義弘は、北国街道をおさえるため、ここ小池村に陣を構えた。西軍がことごとく敗退する中で、「西軍に島津あり」の勇姿を家康に見せつけるため、義弘は最後の賭けに出たのです。「背進」を最強の武器に変えたその決断こそ、現代にまで語り継がれる「敵中突破」なのです。(現地説明板より) |
島津豊久 | 墓の場所(地図) 島津豊久墓 敵中を突破し、鳥頭坂のしんがり戦で重傷を負った島津豊久は、従士に介護されながら、やっとこの地に辿り着いたが、遂に自刃して果てた。時に31才の若さであった。この時、樫原の名手三輪内助入道一斎は豊久の以外を懇ろに葬り、瑠璃光寺を菩提所として祀った。豊久の墓は、ここカンリンヤブと呼ぶ林にあり、島津塚ともいう。また瑠璃光寺には豊久の位牌も祀られている。 |
小西行長 | 陣の場所(地図) 小西行長は、ここ北天満山に四千余の兵を率いて参戦しました。午前8時頃、味方に合図をすると共に、西軍主力の1つとして勇戦しています。しかし小早川らの裏切りの衝撃は小西隊の混乱を招き、それに乗じた本多隊の襲撃で、兵士達が敗退し始めたのは午後1時過ぎの事でした。(現地説明板より) |
宇喜多秀家 | 陣の場所(地図) 西軍副大将の秀家は、1万7千の兵を配して中山道をおさえた。午前8時頃、東軍福島勢の猛攻から戦いは始まり、秀家の前衛明石全登の隊との激突となりました。宮本武蔵が奮戦したのもこの辺りといわれています。秀家は敗走中、池田郡白樫村の矢野五右衛門に助けられ、その後八丈島へ流され、83才まで生き延びています。(現地説明板より) |
平塚為広 | 陣の場所(地図) 合戦当時、垂井城主(1万2千石)だった為広は、吉隆(大谷吉継)と親しかったため、大谷隊に加わっていました。平塚・戸田両隊の小早川隊との勇戦ぶりは目覚しかったが、脇坂らの背反が加わり、味方の潰滅を見極めた為広は、辞世の句を打ち取った首に添えて吉隆に届けさせると、藤川台の露と消えました。(現地説明板より) |
大谷吉継陣 大谷吉継墓 |
陣の場所(地図) 親友三成に懇請を受けた吉継は、死に装束でここ宮上に出陣した。 9月3日到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で、宇喜多隊らの陣造りも進め、15日未明の三成主力の着陣を待ったといいます。(現地説明板より) 墓の場所(地図) 吉継は三成の挙兵に対し、再三思いとどまるよう説得したが、三成の決意は変わらなかった。旧友の苦痛を察した吉継は、とうとう死を共にする決意をし、死に装束でここ宮上に出陣した。壮絶な死闘の末、吉継は首を敵方に渡すな、と言い残して自害した。お墓は敵方藤堂家が建てたものです。(現地説明板より) |
東軍 | |
徳川家康最初の陣 | 徳川家康は、最初、桃配山に陣を構えた。 詳しくは、桃配山のページをご覧ください。 |
徳川家康最後の陣 | 陣の場所(地図) 戦がたけなわとなると、家康は本営を桃配山から笹尾山の東南1kmのこの地点に進出させた。ここで、家康は陣頭指揮に当るとともに、戦が終わると、部下の取ってきた首を実験しています。周囲の土塁や中央の高台は、天保12年(1841)に幕府の命により、この地の領主竹中家が築いたものです。(現地説明板より) |
黒田長政・竹中重門 | 陣の場所(地図) 岡山(丸山)烽火場 この山頂には長政と重門が陣を敷いた。霧も晴れ上がった午前8時頃、ここから狼煙が上げられ、東軍諸隊に攻撃の合図が出された。同時に、西軍が陣取る笹尾山、北天満山にも狼煙が立ち昇り、東西両軍はいっせいに正面の敵との戦闘を開始した。(現地説明板より) |
田中吉政 | 陣の場所(地図) 田中隊はここから石田隊に向かって兵を進め、笹尾山麓より討って出る先手の兵と激突。本隊が2・3百m程引き下がる。そこに他の東軍諸隊の兵が食らいつく。というように、両軍間で激しい白兵戦が展開された。三成が自分の意志で、残党狩りの吉政配下の兵の手に落ちたのは、合戦後8日目のことでした。(現地説明板より) |
井伊直政・松平忠吉 | 陣の場所(地図) 中仙道の敵を目標とする福島・藤堂・京極隊、北国街道を黒田・竹中・細川等の隊、その中央にあたるこの地に家康の四男 松平忠吉、後の彦根城主 井伊直政が約六千の兵で陣を構えた。午前8時頃、軍監・本多忠勝より開戦を促され、直政・忠吉を擁して前進し、宇喜多秀家の前面に出たが、先鋒は福島正則であると咎められ、方向を転じて島津義弘の隊に攻撃し、開戦の火蓋が切られた。(現地説明板より) |
福島正則 | 陣の場所(地図) 東軍の先鋒となった福島正則(約6千)は、ここで南天満山の宇喜多隊と対陣しています。一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせる中、一進一退の攻防戦が続きました。首取りで手柄を立てた可児才蔵が、家康の賞賛を受けたとされています。(現地説明板より) |
藤堂高虎・京極高知 | 陣の場所(地図) 藤堂・京極隊は、ここ中仙道の南に位置する柴井に陣し、松尾山や山中村などの西軍に備えました。ところが小早川隊の寝返りで戦況は一変したのです。大谷隊と小早川隊との壮絶な死闘の真っ只中へ、本両隊が突入し、これに呼応した脇坂隊らの攻勢も加わり、大谷隊は壊滅に追い込まれていったのです。(現地説明板より) |
本多忠勝 | 陣の場所(地図) 軍監として家康を守り、関ヶ原の中央に進出。生駒・金森・古田・織田の諸隊が備える背後にある家康の本陣(桃配山)を背にして麾下の隊を指揮した。福島・黒田隊など先陣が進撃し、金森・織田等の諸隊が前進すると忠勝も先陣の井伊直政に負けじと梨木川北方で島津隊と奮戦した。戦後伊勢桑名10万石に転封された。(現地説明板より) |
山内一豊 | 陣の場所(地図) 家康の会津征伐に従軍した一豊は、関ヶ原の戦いで西上に際し、掛川城を明け渡しての出陣となりました。岐阜・大垣城の兵と戦い、ここ野上に入ると、一豊外八将は一里塚より桃配山までの間の中仙道左右に並列に陣し、南宮山の敵に備えました。その後、家康の進旗にあたり、南宮山の隊に東軍攻撃の形勢がないため、使番による家康からの命令を受け、山内隊は有馬、蜂須賀の隊と共に柴井の地まで前進して戦いました。戦後、妻の内助の功もあって、土佐の国主となっています。(現地説明板より) |
浅野幸長 | 合戦後は、和歌山37万6千石に加増されました。 詳しくは、浅野幸長陣のページをご覧ください。 |
池田輝政 | 陣の場所(地図) 国道21号「御所野西」信号から100m程西進すると左手に「春王・安王の墓」という三角柱の大きな看板があるので、その看板のすぐ右横を通り抜けます。すると墓地で突き当たりますが、「春王・安王の墓」の手前に池田輝政陣所の碑と説明板もあります。 小牧・長久手の戦いで父と兄が戦死すると家督を継ぎ、池尻城主、大垣城主、岐阜城主を経て三河吉田15万2千石の領主になりました。徳川家康の息女督姫をめとりました。関ヶ原合戦では東軍に属し、織田秀信のこもる岐阜城を攻略、合戦当日は南宮山の西軍に備え、御所野に陣を構えました。合戦後は姫路52万石に加増され、姫路宰相と呼ばれました。(現地説明板より) |
西軍(反応軍・・・東軍へ寝返り) | |
松尾山 | 小早川秀秋が陣を置いた松尾山。秀秋の寝返りで戦況は一変した。 詳しくは、松尾山城のページをご覧ください。 |
脇坂安治 | 陣の場所(地図) 安治は、関ヶ原の戦い当時は洲本城主で、かつて賎ヶ岳七本槍の一人として名を挙げた武将でした。東軍に通じていた安治にとって、小早川の裏切りは願っても無い事でした。しかも東軍が優勢に転じる頃合を見計らい、みずから槍を振るい、大谷隊の側面に先頭をきって躍りこんでいったのです。(現地説明板より) |
西軍(傍観軍) | |
吉川広家 | 陣の場所(地図) 垂井高校の北側道路を西進した高校敷地西隅付近に説明板あり。 毛利元就の次男・吉川元春の子。文禄・慶長の役では石田三成と対立した。関ヶ原合戦では、西軍の敗北を予想しながら本家の輝元が西軍に属したため、主家の在続をはかり、東軍に内通した。合戦当日、南宮山のふもとに陣を構え、毛利隊が合戦に参戦するのを押し止める役割を果たした。しかし、合戦後は広家の思惑がはずれ、毛利氏は大幅に領地を削減されることとなった。(現地説明板より) |
安国寺恵瓊 | 安国寺恵瓊が陣を敷いた南宮山背後。 詳しくは、安国寺恵瓊陣所のページをご覧下さい。 |
長束正家 | 陣の場所(地図) 県道226号の西側を平行して走る通りを南下すると、境野地区で右手の山の方に「和菓子屋つたや」の看板が見えます。この和菓子屋から北へ200m程歩くと左手に池があり、右手に説明板があります。 長束正家は、文禄4年近江水口5万石の領主となり、ついで12万石に加増され、従四位下侍従に叙任、慶長3年(1598)7月五奉行の一員に列せられた。同5年関ヶ原合戦では西軍に属し、9月15日の決戦では1500人の兵とともにここ境野に陣し、合戦前には東軍の池田輝政軍との間に銃撃戦があった。その後、三成方の敗北を聞くと水口城に帰城しましたが、池田長吉に欺かれ自殺した。(現地説明板より) |
毛利秀元 | 毛利秀元が陣を布いた南宮山。 詳しくは、南宮山のページをご覧下さい。 |
長曽我部盛親 | 長曽我部盛親が陣を布いた栗原山。 詳しくは栗原山のページをご覧下さい。 |
その他の史跡 | |
開戦地 | 開戦地の場所(地図) 霧が薄くなり視界も広がった午前8時。先鋒の福島正則は井伊隊の旗の動くのを見て、先陣の手柄を取られてなるものかと、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせた。一方、井伊隊も福島隊に遅れまいと、島津隊の陣に向かって攻撃を開始し、合戦の火蓋が切って落とされた所です。(現地説明板より) |
決戦地 | 決戦地の場所(地図) 西軍有利な形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら4隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させた。小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の配色が濃くなり、各軍の兵士の浮き足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。(現地説明板より) |
西首塚 | 塚の場所(地図) 関ヶ原合戦戦死者数千の首級を葬った塚である。この上に、江戸時代から十一面千手観世音及び馬頭観世音の堂が建てられ、附近の民衆の手によって供養がされている。 (現地説明板より) |
東首塚 | 塚の場所(地図) この塚は、関ヶ原の戦直後に、この地の領主竹中家が築いたもので、家康によって実験された将士の首が、ここに眠っています。(現地説明板より) 首洗いの井戸(塚のすぐ隣にある井戸) 合戦で討ち取られた西軍将士の首は、家康によって首実検され、その後、塚を作って懇ろに葬られました。首実検に先立ち、この井戸水を使って首級の血や土などが洗い落とされたと伝えられています。 |
<戦況> 合戦に至るまで(要約) 慶長3年(1598)豊臣秀吉が没し、その子・秀頼は弱冠6才。関八州255万石余を有す徳川家康は次期政権を狙い、加藤清正、福島正則らの武断派と石田三成を中心とする文吏派の対立を利用し、更に秀吉が家康の台頭を封じるために設けた「五奉行制」の切り崩しをはじめた。 家康は前田利家の嫡男・利長が首謀者とした家康暗殺計画の噂を流し、五奉行の浅野長政・大野治長・土方雄久らに蟄居などの処分を命じた。利長には謀反嫌疑を主張して豊臣軍による前田征伐を計画したが、利長は実母・芳春院を人質として出し、家康への従順を示した。 また、前田利家死後、武断派の加藤清正らが三成を襲撃しようとしたため、三成の五奉行を免職とし、佐和山城へ蟄居させた。 その後、家康は大坂城に入り、縁組・加増・転封などで謀略を進めた。 その頃、会津の上杉景勝が城普請や橋・道路の整備、軍備増強を進めていた。家康は景勝の行為を謀叛として、上杉征伐に豊臣家臣団を引き連れ東国へ出発した。 7月2日:三成は大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、西軍に吉継を引き込んだ。 7月12日:佐和山城で三成、吉継、増田長盛、安国寺恵瓊が密談し、西軍総大将に毛利輝元を要請する事に決めた。 7月18日:三成は挙兵し、家康の家臣・鳥居元忠が預かる伏見城を攻めた。伏見城は宇喜多秀家、島津義弘らの攻撃で、8月1日に落ちた。 8月10日:三成は美濃方面を抑えるため、佐和山城から大垣城に入った。 8月22日:江戸に滞留する家康を除き、福島正則、池田輝政の先発隊が東海道を西進し、河田(現一宮市)から木曽川を渡り、米野村(現笠松町)付近で西軍と激突した(河田木曽川渡河の戦い・米野の戦い)。 8月23日:清州城に集結した東軍は更に進軍し、織田秀信(三法師)城主の岐阜城を落とした。家康は江戸で諸将に書状を書き送り、豊臣恩顧の大名を引き入れようとした。その後、約3万の兵を率いて東海道を西進した。 家康の三男・徳川秀忠は約3万8千の兵を率い中山道を進んだが、途中、真田昌幸の籠もる上田城を攻略するのに執着し、上田城で足止めを食らったため、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。 9月14日:家康は赤坂の岡山に設営した本陣に入った。 三成は家臣である島勝猛(左近)の進言により、士気を高めるために赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を出し、東軍の一部を誘い出して打ち破った(杭瀬川の戦い)。 大垣城の石田三成らは、「大垣を無視して佐和山城を陥とし、大坂へ向かう」という家康の流言を信じ、両軍は夜のうちに関ヶ原へ動いた。 合戦当日 9月15日午前6時頃、東西両軍は関ヶ原に約18万(東軍10万4千、西軍8万2千)の兵が集結した。 関ヶ原は早朝から深い霧が立ち込め、見通しが悪かった。 濃霧で隣の軍の様子も分からないため、両軍は2時間ほど対峙し続けた。 やがて、霧が薄くなってきた頃、松平忠吉の小隊と井伊直政が「物見」と称して福島隊の前方へ出た。家康から先鋒を任された福島正則は抜け駆けかと詰問中、忠吉の小隊は突然、西軍の主力である宇喜多隊に向けて発砲し、戦いの火蓋が切って落とされた。 発砲された宇喜多隊も射撃で応戦した。福島隊6千と宇喜多隊1万7千は互いに譲らず攻め合い、更に両軍は入り乱れた。 三成は、開戦から2時間を過ぎても参戦しない武将に、戦いに加わるよう狼煙を上げた。西軍は総兵力のうち、戦闘に加わっていたのは3万5千ほどだったが、戦局はやや優位だった。 松尾山の小早川隊と南宮山の毛利隊が東軍の側面と背後を衝けば確実に勝利すると思い、島津隊に応援を要請したが、島津は拒否し、毛利秀元は、吉川広家に道を阻まれ、参戦できなかった。吉川広家は毛利家の所領安堵を条件として、家康側に内応していた。小早川隊は東西どちらにつくか判断しかねて戦況を見ていた。 正午過ぎ、家康は、内応を約束していた小早川秀秋隊が動かないことに腹立ち、松尾山に向かって威嚇射撃を命じた。どちらにつくか迷っていた小早川秀秋は、この威嚇射撃に家康側につくことを決意し松尾山を下りた。 小早川秀秋隊1万5千6百は、大谷吉継隊右翼を攻撃した。更に、それまで様子を眺めていた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らの西軍諸隊も小早川軍に呼応して東軍に寝返った。これらの裏切りで戦局は一変した。 西軍総崩れとなったが、島津義弘隊が一斉に鉄砲を放ち、家康本陣側を通り抜け撤退した。島津隊は島津豊久や阿多盛惇(長寿院盛惇)らを犠牲にし、最後は約80の手勢となったが、撤退に成功した。 合戦は、小早川の裏切りにより、東軍の大勝利となった。この合戦により天下は名実共に家康のものとなり、その後の、大阪冬の陣、夏の陣によって豊臣家が滅び、約270年も続く徳川幕府の礎となった。 |
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