姉小路氏は、家綱が南朝から国司に任ぜられ向小島城に居城したが、家綱の孫・基綱が北朝から国司に任ぜられ小島城あるいは古川城を居城とした。応永年間(1394-1428)、小島氏(
小島城)、向氏(
向小島城)、古川氏(古川城)の三家に分離した。大永元年(1521)頃からこの三家は争い、更に南の三木直頼が小島家・向家に加担して、享禄4年(1531)に古川城を攻めたため落城した。弘治元年(1555)、三木直頼の子・良頼は
小島城・
向小島城も攻め落とし、古川城も落城させた。永禄3年(1560)、良頼と子の自頼が古川氏を称して古川城を拠点とした。天正13年(1585)、金森長近の飛騨侵攻で落城し、金森氏が入ったが、
増島城を築城して移ったため廃城となった。