11.土屋右衛門尉昌次戦死之地
18.高坂源五郎昌澄之碑
墓地・その他
墓地・その他
16.甘利郷左衛門尉信康之碑
26.原隼人佐昌胤之碑
27.信玄塚
32.内藤修理亮昌豊之碑
77.再現馬防柵
21.勝楽寺前激戦地
17.竹廣激戦地
15.柳田前激戦地
9.長篠役設楽原決戦場
<戦場ほか>
34.五味與惣兵衛貞氏之墓
68.大通寺盃井碑
41.鳥居強右衛門磔死之碑
43.鳥居強右衛門墓
7.羽柴秀吉陣地
陣地・城など
<連合軍側>
72.中山砦
33.武田勝頼観戦地
陣地・城など
50.武田勝頼本陣
51.武田勝頼戦本陣地
71.鳶ヶ巣山砦
38.武田勝頼戦地本陣
31.内藤昌豊陣地
*番号は、「長篠の戦い史跡案内図」と同じ番号にしてあります。
長篠の戦い史跡案内図参照
長篠城址史跡保存館発行
武田軍側
織田・徳川連合軍側
<武田軍側>
9.長篠役設楽原決戦場 東郷中学校の東側、家康物見塚へ上がっていく麓に
「長篠役設楽原決戦場」の碑がある。

いろはかるた「日は悲し 一五七五ぞと 武田七九」
11.土屋昌次戦死之地 碑の場所(地図)

馬防柵の一角に碑がある。
土屋昌次の父・金丸虎義は武田晴信の守役で、昌次は次男だった。ちなみに、金丸氏は足利氏一門の一色氏庶流で、昌次は「奥近習六人」の一人として信玄の傍近くに仕えた。
長篠・設楽原合戦では、三重柵の二重まで突破した所で一斉射撃を受け戦死した。
いろはかるた「土屋昌次 柵にとりつき 大音声」
15.柳田前激戦地 碑の場所(地図)  甘利信康之碑の道路を挟んだ向かい側

連吾川を渡る橋の近くに碑といろはかるたがあります。
合戦当時、この付近は水田や泥沼地になっており、馬は足を取られて思うように動けなかったようです。さすがの武田騎馬軍団も、これではお手上げ。鉄砲隊の餌食になったようです。

いろはかるた「ぬかるみに馬もしりごむ連吾川」
16.甘利郷左衛門尉信康之碑 碑の場所(地図)  柳田前激戦地の道路を挟んだ向かい側

甘利信康は、信玄を若い頃から支えた老臣・甘利虎泰の子である。長篠・設楽原合戦時には父・兄は既に亡くなっており、弟の甘利信康が百騎の侍大将として小荷駄奉行を勤めた。
いろはかるたには、「雄々しくも立ち腹さばく甘利信康」と書かれています。
 
碑の場所(地図)   東郷中学校から東進し、連吾川を渡ってすぐ

連吾川天正3年(1575)5月8日、武田勝頼は1万5千の兵を率いて長篠城をとり囲んだ。城主奥平貞昌は城兵5百とともによくこれを防ぎ、14日、鳥居勝商の決死的な脱出により、織田、徳川の援軍を得ることに成功した。20日、武田軍は3千の兵を長篠城の押さえに残し、織田、徳川連合軍3万8千の布陣するこの設楽原に進撃した。
戦いは5月21日(陽暦7月9日)連吾川(左)をはさみ、織田、徳川の鉄砲隊と武田の騎馬隊が壮絶な戦闘をくり返した。3千挺の鉄砲と馬防柵の前に武田軍はほとんどの勇将、智将を失う惨敗を喫し、勝頼はわずかの兵に守られて甲州へ落ちのびていった。(現地説明板より)
18.高坂源五郎昌澄之碑 碑の場所(地図)
昌澄は、武田の四天王といわれた高坂弾正忠昌宣の子として、山梨県甲府に生まれ設楽原の戦いには、25才の若さで、兵2千を率いる隊将として戦った。昌澄は始め長篠城を取り囲む城監視隊長として戦っていたが、武田勝頼本陣から設楽原前線の信玄南坂に転戦を命ぜられ、悪戦苦闘の末、今はこれまでと単身連吾川を越え、徳川の本陣めがけて斬り込んだが徳川の将、稲生次郎左エ門との戦いにここで敗れた。稲生は家康の指示もあって、ここに埋葬し里人にも語り弔ったという。(現地説明板より)

いろはかるた「留守の役高坂弾正は海津城」
        「故ありて昌澄の墓は小川路に」
19.大久保兄弟陣地 碑の場所(地図)
徳川軍最右翼となる大久保忠世・忠佐隊によって戦いの火蓋が切られた。柵の外に歩兵隊を出していた大久保隊が、武田軍最左翼となる山県昌景隊の前面にいた足軽に鉄砲を撃った。これを見た山県隊は3千の騎馬隊で川路村連吾橋の南方・柵のない連吾川下流を渡って迂回し、徳川勢の後方をつこうとした。そこへ大久保兄弟率いる一隊が立ちはだかった。敵がかかって来たら柵内に退き鉄砲を放ち、敵が退けば追って出るを繰り返し、多数の兵を二人の采配で動かした。山県隊は連吾川の断崖に阻まれ、大久保隊3百余挺の銃火に遭いながら竹広方面へ転戦した。
いろはかるた「先陣の大久保兄弟うって出る」
21.勝楽寺前激戦地 碑の場所(地図)

勝楽寺に陣を構えた赤備えの山縣三郎兵衛昌景が、勝楽寺から出てきて、徳川軍の大久保隊と激戦を繰り広げた場所です。
26.原隼人佐昌胤之碑 碑の場所(地図)

原昌胤は父・昌俊の跡を継いで陣場奉行を勤めた。この合戦も陣場奉行として勝頼に撤退を進言したが容れられず、内藤昌豊らと共に中央隊に属して徳川本隊を目指し、銃弾を浴びて討死にした。昌胤は平時は優れた土木技術者として治水工事で業績を残した。

いろはかるた「治水にもつくせし昌胤ここに死す」
27.信玄塚
大塚


小塚
碑の場所(地図)
天正3(1575)年、織田、徳川連合軍と武田軍の間で戦われた設楽原の戦いは連合軍側の大勝に終った。この戦いで両軍あわせて1万6千もの戦死者があったといわれている。戦場のかたづけに従事した竹広の村人は、この地に戦死者をねんごろに葬り、2つの塚を築いて弔った。これが「信玄塚」である。当時すでに亡かった信玄の名を冠して、信玄塚と呼ばれたのは、いかに信玄の偉名が大きかったかを物語っている。毎年8月15日の夜この地で戦死者の霊を弔う「火おんどり」が行なわれる。60本から70本のアシとシダで作った火のついた大松明が勇壮にうち振られる様は、戦場で苦闘した武田軍の様子を思い起させる。(現地説明板より)

信玄祖師堂     慰霊牌の場所(地図)
いろはかるた 「冥福を祈る武将の慰霊牌」
34.五味與惣兵衛貞氏之墓 碑の場所(地図)

東郷小学校から200m程北上すると、山の左手に登り口があります。そこから真っ直ぐ登った右手にお墓やいろはかるたがあります。道路から左手の山を見るとかすかに白い看板が見えます。

五味貞氏は越前の浪人で、長篠・設楽原合戦の際は武田方として、長篠の5砦の1つ、中山砦に名和無理之助らと共に布陣した。しかし5月21日早朝、酒井忠次らの奇襲攻撃に遭い討死した。

死んだ場所と、墓の場所が違うため、これには諸説あるようです。

いろはかるた 「律義にも塩瀬が残す五味の塚」
41.鳥居強右衛門磔死之碑 碑の場所(地図)
天正3年(1575)5月1日、甲斐の武田勝頼は1万5千人の軍勢を率いて、長篠城を取り囲んだ。奥平貞昌を城主に、わずか5百人の兵が長篠城に籠城した。城の兵は、武田軍の猛攻をよく防いだが、落城寸前となってしまった。この時、城主の命を受けた鳥居強右衛門と鈴木金七は川伝いに城を抜け出し、家康のいる岡崎城へ援軍の要請に向かった。家康と信長に会い、城内の様子を伝えた強右衛門は、「援軍来たる」の返事を持って一足先に城へと向った。かんぽう山で合図の「ノロシ」をあげた強右衛門は、城中へ戻る途中、有海の篠場野で武田軍にとらえられた。
強右衛門は、武田方から「"援軍は来ない"と言えば助ける」と言われ、城中が見渡せる場所へ連れてこられた。城兵を前にして強右衛門は、「援軍は来る」と大声で叫んだ。勝頼は「勇気の士」としてその行動をたたえたが、武田の将兵によって、この地で磔となった。この強右衛門の行動がきっかけとなり戦いの舞台は、長篠から設楽原へと移っていった。(現地説明板より)
43.鳥居強右衛門墓


鈴木金七
墓の場所(地図)
鳥居強右衛門勝商
天正3年(1575)5月、長篠城は武田勝頼の攻撃を受け、まさに落城寸前であった。この危機に、城主奥平貞昌の命をうけた勝商に、城の運命を背負って決死的な脱出を果たし、岡崎の徳川家康のもとに走り、織田徳川連合軍の援軍を得ることに成功した。
その帰途、勝商は再度入城するところを武田軍に捕えられ、有海の篠場野において磔殺の刑に処せられた。36歳であった。
長篠城の命運を一身にうけ、君主を思う忠誠心からの勝商の功績は、今なお三河武士の鑑としてたたえられている。当寺に、その霊を弔う墓がある。(新昌寺 現地説明板より)

鈴木金七 碑の場所(地図)(茶臼山へ上る途中の右手に有り)
新城市富永旧川上村の鈴木一族の出自天正3年5月18日(陽暦7月)長篠城から敵の重囲を破り、城将貞昌の「城兵は意気軒昂たり、決戦を急ぎ給うな。」の言を家康本陣に伝え、これが連合軍の勝機につながったという。
後、父祖の地作手亀山城主となった松平忠明は、作手村田代に帰農していた金七をたずね、2百石の禄を与えて往年の労をねぎらった。(現地説明板より)

いろはかるた「来援を せかじとつげし 鈴木金七」
72.中山砦遠望 砦の場所(地図)

武田勝頼方が長篠包囲として築いた5砦の1つ。他には、鳶ヶ巣山砦、久間山砦、姥ヶ懐砦、君ヶ伏所砦がある。5砦のうち、西から2番目で最も長篠城に近く、長篠城監視には絶好の場所で、急峻な崖に守られています。守将は名和無理之助、並びに五味与惣兵衛。
遺構は削平地がある程度だが、『鎧掛の松』と伝わる松の木の切り株があるようです。第二東名高速道路の工事で、2007年には消滅してしまいます。
77.再現馬防柵 碑の場所(地図)

名和式「鉄砲構え」
天正3年(1575)新暦の7月9日、織田信長・徳川家康軍が、武田勝頼軍との設楽原決戦に備えて構築した「鉄砲構え」乾掘と馬防柵と銃眼付きの身がくし(土塁)の三段構えであった。古文献と時代考証による復原である。(現地説明板より)

いろはかるた「えんえんと柵木岐阜よりかつぎくる」
天正3年(1575)「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵を再現したものである。連吾川に向かって右側の下手に徳川軍のものを、左側の上手に織田軍のものを、区別して構築してみた。両者の様式には、攻口(出入り口)の設け方に違いが認められる。
当時、天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で防ぎ止め、その内側にあって鉄砲でねらい撃ちにするために造られたもので、延長2粁余(2km余)に及んでいた。決戦の正面となったこの連吾川沿いに三重の柵を構え、背後のの弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いには、さらに一重の柵を設けて万一に備えていた。
織田・徳川連合軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石であり、逆に武田軍にとっては、勝利を阻む痛恨のしがらみとなったのである。(現地説明板より)
<長篠・設楽原合戦の戦況>

●合戦前のできごと
長篠城は、武田信玄が上洛を目指し三河侵攻をしていた頃、武田方に属していた。しかし天正元年(1573)、信玄の死後、徳川家康がによって落とされた。
天正3年(1575)4月5日 武田勝頼は1万5千の軍勢を率いて長篠城へ向かった。4月21日、勝頼は医王寺山に本陣を置き、長篠城を包囲した。5月8日、勝頼は長篠城の攻撃を開始した。

城将奥平貞昌以下5百の兵はよく防いだが、14日の総攻撃で残ったのは本丸と二の丸だけだった。そこで、14日夜、長篠城から鳥居強右衛門鈴木金七と2人との説もあり)が城を脱出し、豊川を4km程下った広瀬(新城市川路)へ上陸、雁峰山で脱出成功の狼煙を上げ、岡崎まで走り信長・家康に援軍を要請した。そして援軍が来る知らせを持ち帰るため城内へ入ろうとして武田軍に捕らえられた。
武田軍は強右衛門に「信長の援軍は来ないと言え。そうすれば命を助けて恩賞は望みとおり与える」と言った。しかし、強右衛門は城門の前で「信長の援軍は一宮辺りまで来ている。」と叫んだ。怒った勝頼は、篠場野(新城市有海)の長篠城から見える場所で磔にした。

織田信長、徳川家康連合軍3万8千は17日設楽原へ向け出陣し、18日設楽原に到着した。連合軍は、連吾川の西側に陣を敷き、すぐに馬防柵を作り始めた。

20日、武田軍は一部を長篠城の押さえに残し、1万2千の軍勢を率いて設楽原へ移動した。そして、連吾川東岸の台地に敵地を見下ろすように布陣し、才の神を本陣とした。両軍の間には、梅雨明けで増水した連吾川と水田が広がっていた。
その夜、徳川軍別働隊(酒井忠次隊)4千がひそかに鳶ヶ巣山の南側に迂回していた。

そして、21日、織田・徳川連合軍と武田軍は激突した。


●6時頃〜
武田軍左翼隊
徳川軍大久保忠世・忠佐隊が武田軍山県昌景隊の前面にいた足軽に鉄砲を撃ちかけたことにより戦いの火蓋が切って落とされた。
武田軍山県隊は、3千の騎馬隊で徳川勢の後方へ出ようとした。これに大久保兄弟率いる一隊が立ちはだかった。大久保兄弟隊は、敵がかかって来たら柵内に退いて鉄砲を放ち、敵が退けば追って出るといった戦略を取り、多数の兵を二人の采配で取りしきった。そのうちに、山県隊は連吾川の断崖に阻まれ、向こう岸に渡ることもできず、大久保隊3百余挺の銃火に多くの兵を失いながら竹広方面へ転戦した。

●午前7時半頃〜
武田軍左翼隊
山県隊が竹広方面へ転戦した後、小幡信貞兵二千余(赤備え)が馬防柵に迫ったが、徳川勢3百挺の鉄砲に半数が討たれ、残兵は竹広・柳田方面に敗走した。同様に、小山田信茂が率いる騎馬隊、武田信豊率いる黒備えが出撃したが、銃弾により多くの兵を失い、残兵は退却した。

●午前8時頃〜
長篠城包囲軍
武田信実らが守る鳶ヶ巣山を酒井忠次らが奇襲した。この時の喚声と噴煙が連合軍の士気を高め、勝頼に大きな不安を与え進軍へと追い詰めた。

武田軍右翼隊
馬場信春を先手として、信長の本陣目指して突撃した。北方の丸山砦は信長軍の佐久間信盛が6千の兵で守備していた。馬場信春は7百の手勢を二手に分けて攻撃し、佐久間隊を落として丸山を占拠した。

●午前10時頃〜
武田軍右翼隊
馬場信春は、勝頼に見方の損傷が少ない今のうちに退陣を進言したが、勝頼は全軍進撃を命じた。
馬場は同じ武田軍右翼隊の真田信綱・昌輝兄弟、土屋昌次らに進軍を告げた。土屋昌次は、真田兄弟や土屋らは進撃し、銃弾をかいくぐって第一柵を破ろうとする勢いだった。信長は、羽柴秀吉・丹羽長秀の部隊を北側から迂回させ、側面から急襲させた。
土屋昌次は柵前で奮闘した。柵前にいた滝川一益率いる騎馬隊を打ち破り、一の柵で足軽隊を踏み潰し、二の柵からの一斉射撃で多くの兵を失いながらも三の柵に迫った。しかし、佐々成政、前田利家らが指揮する鉄砲隊が一斉に撃ちかけ、土屋昌次は三の柵によじ登った所で銃弾に倒れた。

真田兄弟は二手に分かれ、信綱が2百余騎で柴田・羽柴隊の柵にめがけ突進した。織田軍の鉄砲隊は弾丸を込める余裕がなく後退した。そこで柴田・羽柴隊が柵の外の側面に迂回し、銃弾を浴びせたため、信綱は柵前で戦死し、昌輝も負傷し退却した。

武田軍中央隊
勝頼軍中央隊の内藤昌豊・原昌胤・武田信廉らが突進したが、馬防柵の前で銃撃に遭い敗退した。

●13時頃〜
武田軍右翼隊
小山田信茂・甘利信康らの生き残り諸隊が軍勢を立て直し、押し出てきた丹羽・柴田・羽柴勢を横合いから攻撃して撃退させ、家康本陣へ果敢にも攻撃を仕掛けた。しかし、山県は本多忠勝の鉄砲隊に破れ、戦死した。織田・徳川勢は柵内におびきよせる作戦から、柵外に打って出る作戦に変更し、武田軍は圧倒され引き下がった。

●14時頃〜
武田軍中央隊
信長が総攻撃を命じた。全軍は連吾川を渡り、両軍入り乱れて戦った。中央隊の武田信豊隊、一条信龍隊、武田信廉隊、小幡信貞隊は、敵の攻撃に押され退いた。更に、勝頼の後備にあった穴山信君や武田信光らは、勝頼より先に逃げた。勝頼は、武田軍の引き揚げを決意し、宮脇に出て大海方面に退却を始めた。

●15時頃〜
終焉
左翼隊だったが中央隊に合流した甘利信康は、自決した。
中央隊の原昌胤は殿をつとめ、自ら敵の銃弾を浴びた。
中央隊の内藤昌豊は、残兵と家康本陣めがけたが、矢が全身に刺さり討ち取られた。
馬場信春は、勝頼の退路を確保するため一足早く戦場を離れ、出沢橋詰で勝頼を迎えた。勝頼の退却を見届けた後引き返し、討死した。

武田軍の戦死者は約1万人、織田徳川連合軍の死傷者は6千だった。

戦後、村人たちはおびただしい数の死者を葬った。それが信玄塚である。毎年お盆に行われる「火おんどり」はこの戦いの死者を供養するための火祭りとして、今日まで伝えられている。
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長篠・設楽原合戦
の史跡


6.信長戦地本陣茶臼山
1.信長旗本地
7.秀吉陣地
77.馬防柵
8.家康本陣
9.決戦場
10.家康物見塚
31.内藤昌豊陣地
32.内藤昌豊碑
16.甘利信康碑
37.武田諸将訣盃
15.柳田前激戦地
51医王寺山砦勝頼本陣
79.川路城
41.強右衛門磔死碑
19.大久保兄弟陣地
68.大通寺盃井
21.勝楽寺前激戦地
71.鳶ヶ巣山砦
72.中山砦
2.信長本陣極楽寺跡
5.岡崎信康本陣
4.信忠本陣
11.土屋昌次戦死
3.信雄本陣
33.勝頼観戦地
34.五味貞氏墓
26.原昌胤碑
27.信玄塚
17.竹廣激戦地
18.高坂昌澄碑
38.勝頼戦地本陣
50.勝頼本陣
43.強右衛門墓
長篠城