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別名 |
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所在地 |
山梨県韮崎市中田町中條 |
遺構等 |
土塁、曲輪、空堀、馬出、三日月堀、碑、説明板 |
現状 |
城址公園 |
築城年 |
天正9(1581) |
築城者 |
武田勝頼 |
歴代城主 |
武田勝頼 |
形式 |
平山城 |
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二の丸 |
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JR中央本線「新府駅」から西へ約750m。「新府公園」が城で、公園の北東(県道17号沿い)に無料駐車場が完備されています。 |
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【感想・メモ】 |
2002年からの発掘調査後に整備したようで、再訪したら城跡は見やすくなっていました。馬出しや三日月堀を始め、土塁や空堀が見応えあります。本丸には神社や長篠の合戦で戦死した人達の墓があり、ここから眺める山々の景色がとても美しいです。周囲は桃畑なので、4月に来たら桃源郷でしょう。また、能見城周辺に新府城外郭の堀や土塁も残っています(穴山駅から北東へ約900mの御名方神社や神社から西南西へ約400m付近の竪堀・虎口など)。 |
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【歴史】 |
天正3年(1575)、長篠・設楽ヶ原合戦で織田信長・徳川家康連合軍に大敗した武田勝頼は、一門衆の穴山信君(梅雪)の進言で要害な地である七里岩の断崖上に新城を築くことを決め、天正9年、真田昌幸に命じて新府城を築いた。普請を開始して9ヵ月後、まだ城は完成していなかったが勝頼は入城した。その3ヵ月後、織田信長の甲斐侵攻が開始された。更に、穴山梅雪・木曾義昌が寝返り、勝頼の弟・仁科盛信が守る高遠城も落城したため、勝頼は新府城に火をかけ、小山田信茂の岩殿城を目指したが、途中、信茂の離反を知り、勝頼は天目山で嫡男信勝共々自刃して果て、新羅三郎義光以来28代続いた名門、甲斐武田氏は滅亡した。 |
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