天文11年(1583)、伊達稙宗の三男・伊達実元が城主だったが、伊達14代稙宗と15代晴宗父子の内紛の際、実元は稙宗につき、大森城は稙宗方の重要拠点の一つとなった。天文17年に乱は終息し、稙宗は隠居し、実元の兄・伊達晴宗に家督相続され桑折西山城から米沢城へ移った後、兄と和解した実元は大森城主にとどまった。その後、実元は大森城を嫡男・伊達成実へ譲り、自身は八丁目城に隠居した。成実は伊達政宗の片腕として活躍し、天正14年(1586)政宗が二本松城を落城させると成実に与え、大森城は片倉景綱に与えた。政宗は大森城を仙道地方進出や相馬氏との戦いの中継拠点として用い、伊達氏の南奥制覇に大きな役割を果たした。 しかし、天正19年の豊臣秀吉による奥州仕置により信夫郡を没収され蒲生氏郷に与えられると、大森城主となった木村吉清は杉妻城を改修して福島城と改名し、そこに居城を移し大森城を廃した。氏郷の死後、蒲生氏が宇都宮城へ移され、上杉景勝が会津領主となり、大森城は再び取り立てられ、上杉氏家臣・栗田国時が城主となった。関ヶ原合戦直前に国時が徳川家康に通じたために殺害されると、芋川正親が城主となる。以後、大森城は芋川氏が代々続いたが、寛文4年(1644)上杉綱勝急死・上杉綱憲相続に伴う一連の騒動によって上杉領が15万石に半減され、信夫郡は天領となり、大森城は廃城となった。 |