城跡の地図
米沢城
別名 松ヶ崎城、舞鶴城
所在地 山形県米沢市丸の内1丁目
遺構等 曲輪、土塁、水堀、説明板
現状 上杉神社、松が岬公園
築城年 暦仁元年(1238)
築城者 大江時広
歴代城主 大江、伊達、蒲生、直江、上杉
形式 平城
訪城日 2006/5/3 感想
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松が岬公園案内図(現地案内板より)
【歴史】
【感想・メモ】
私が行った時は、運良くなのか運悪くなのか「米沢まつり」をやっていてすごい人でした。神社への参拝者の列が長々と続き、車も近くに停められませんでした。人出と出店で城跡をゆっくり見られず、土塁や水堀を眺め、あとは上杉謙信や上杉鷹山の像の写真を撮って退散しました。
暦仁元年(1238)、源頼朝の重臣・大江広元の次男時広が地頭としてこの地に入り築城した。大江氏は長井氏と称し8代続いたが、天授6年(1380)伊達氏8代宗遠に攻められ滅ぼされた。以後、伊達氏が領し、天文17年(1548)15代晴宗の時、米沢を本拠とした。17代政宗はこの城で生まれたが、天正19年(1591)小田原遅参を理由に秀吉に岩出山に移された。その後、米沢は蒲生氏郷が8年間、蒲生郷安が6年間在城した。慶長3年(1598)から上杉領となり、上杉景勝の重臣・直江兼続が入城し、慶長6年には景勝が城主となって以後、上杉氏が続いて明治を迎えた。慶長5年、徳川家康が謀反の疑いで景勝討伐のため挙兵し、これが引き金で関ヶ原の戦いが勃発。景勝は直江兼続を中心に徳川方についた最上義光を攻撃したが、同じく徳川方の伊達軍に攻められ、関ヶ原も西軍が敗れ敗軍となった。戦後、会津120万石の所領は米沢30万石に削られ、寛文4年(1664)には更に15万石に削られ財政難に陥ったが、これを救ったのが上杉鷹山である。鷹山は質素倹約を奨励し、「愛民」を政治理念として改革を推し進め藩財政を立て直した。「成せばなる 成さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」は鷹山の名言である。
【道案内】

よねざわじょう
JR奥羽本線(山形新幹線)「米沢駅」から西へ約2km、JR米坂線「南米沢駅」から北へ約1.5km。「最上川」を国道121号「相生橋」で西へ渡り、1.2km程西進した左手にある上杉神社が城跡です。神社を含めこの付近は公園となっており、公園に無料駐車場が完備されています。