暦仁元年(1238)、源頼朝の重臣・大江広元の次男時広が地頭としてこの地に入り築城した。大江氏は長井氏と称し8代続いたが、天授6年(1380)伊達氏8代宗遠に攻められ滅ぼされた。以後、伊達氏が領し、天文17年(1548)15代晴宗の時、米沢を本拠とした。17代政宗はこの城で生まれたが、天正19年(1591)小田原遅参を理由に秀吉に岩出山に移された。その後、米沢は蒲生氏郷が8年間、蒲生郷安が6年間在城した。慶長3年(1598)から上杉領となり、上杉景勝の重臣・直江兼続が入城し、慶長6年には景勝が城主となって以後、上杉氏が続いて明治を迎えた。慶長5年、徳川家康が謀反の疑いで景勝討伐のため挙兵し、これが引き金で関ヶ原の戦いが勃発。景勝は直江兼続を中心に徳川方についた最上義光を攻撃したが、同じく徳川方の伊達軍に攻められ、関ヶ原も西軍が敗れ敗軍となった。戦後、会津120万石の所領は米沢30万石に削られ、寛文4年(1664)には更に15万石に削られ財政難に陥ったが、これを救ったのが上杉鷹山である。鷹山は質素倹約を奨励し、「愛民」を政治理念として改革を推し進め藩財政を立て直した。「成せばなる 成さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」は鷹山の名言である。 |