北畠具親城
奈垣の地は伊勢神宮領で、伊勢国司北畠氏の家臣が居住していた。天正4年(1576)、北畠具教が養子北畠信雄(織田信長次男)の策略で三瀬館で謀殺され、信雄は霧山城も落として伊勢の実権を握った。それを知った具教の弟・具親は北畠再興を誓い築いたのがこの北畠具親城である。三瀬谷をはじめ周辺の城や砦に立て籠もった北畠勢は織田勢に次々と撃滅され、具親は森城に移って奮戦したが守りきれず、この城まで逃げたが、更に織田の手が延びて来たので、安芸の毛利氏を頼って落ちのびた。天正10年、本能寺の変で織田信長が倒れると、旧臣安保大蔵大夫ら3千の兵と共に五箇篠山城に立て籠もり、翌天正11年に大河内城奪回の攻撃をしたが、織田の大軍に敗れ伊賀に逃れた。天正12年、松ヶ島城に入った蒲生氏郷に客分として迎えられ、その後病死した。(『日本城郭体系10』新人物往来社発行 参照)
国津小学校の県道693号を挟んだ向かい側の通りへ入り、100m程進んだ右手、民家の間に入口の表示があります。ここが登城口でこの北東が城跡です。付近の道路余白に駐車可能です。また、国津小学校正面の県道693号沿いにお城の表示と説明書きがあります。
城跡の地図
登城口の地図
【道案内】

登城口

【歴史】
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登城口から3〜4分も登ると西端の郭で、そのまま東へ進むと「ようこそいらっしゃいませ」と表示があります。その先が二郭で二郭の北側尾根にも郭が三段程あり、二郭の南東は一段高い主郭ですが藪が酷いです。主郭から南東へ堀切が三条あり、三条目は60m程南西先で直角に折れ、20m程先まで続きます。その西側には池がありました。この一直線の堀から南東にも郭が続き、主郭の次の郭から北東へも郭が続きます。池の南側を西へ歩いたら、こちらにも削平が甘いながら郭がありました。広い城域に遺構はほぼ完存で見応えがあります。
【感想・メモ】

別名 関岡城、具親城、神屋敷城
所在地 名張市神屋字早稲冷
遺構等 曲輪、土塁、空堀、説明板
現状 山林
築城年 天正5(1577)
築城者 北畠具親
歴代城主 北畠具親
形式 平山城(比66m)
訪城日 2009/2 感想
きたばたけともちかじょう