宝治2年(1248)、宇都宮5代城主頼綱の四男宗朝が宇都宮城の支城として築城し、多功氏を称した。翌建長元年(1249)には頼綱の二男頼業が東方約4kmに上三川城を築いており、この頃宇都宮城防衛のため宇都宮氏は周囲に一族を配したと考えられる。以後、多功氏が代々居城したが、慶長2年(1597)宇都宮氏没落と共に多功氏も所領を没収され四散し、廃城となった。多功城は宇都宮城の南方における重要な拠点であったため、何度か戦乱に巻き込まれた。最初は延元4年(1339)南朝方の攻撃に遭い、ついで永禄元年(1558)上杉謙信の下野侵入で、謙信は小山城、壬生城を落とし、宇都宮城攻略のため多功城を攻撃した。この時、宇都宮からの援軍も得、多くの犠牲者を出したものの上杉勢を退かせた(多功の戦い)。この他、康暦元年(1379)茂原の合戦、天文年間(1532-55)五月女坂の合戦(宇都宮尚綱と那須氏)、元亀3年(1572)、天正12年(1584)、天正13年の小田原北条氏による下野侵攻においてなど、多功氏は宇都宮氏重臣として活躍した。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際には宇都宮国綱の名代として多功綱継が芳賀高武と共に参加している。
(『とちぎの古城を歩く』塙静夫著 下野新聞社発行、『日本城郭大系』新人物往来社発行、現地説明板 参照) |