平安時代、藤原秀郷が築城との伝承があるものの詳細は不明。平安時代末期に小山政光が居館を構えた。小山氏は勢力拡大に伴い思川左岸に祇園城、鷲城を築き、この両城のつなぎとして長福寺城、更に小山と結城の中間に中久喜城を築いた。14世紀後半、小山氏11代義政の時、城内の守り神である祇園社の名をとって祇園城と名づけた。南北朝時代末期の康暦2年(1380)、小山義政は関東管領足利氏満に居城鷲城を攻められ、永徳元年(1381)降伏して祇園城に移り出家した。しかし、翌永徳2年3月、義政は自ら祇園城に火を放って逃れ、粕尾城・櫃沢城を築いて籠城し鎌倉幕府に対抗したが、自害した。当時の小山氏本城は鷲城で祇園城は支城だったが、小山氏滅亡後、同族の結城泰朝が小山氏を継ぎ、祇園城を小山氏代々の本城とした。戦国期、小山氏は越後の上杉氏や小田原の北条氏ら戦国大名に攻略され、天正3年(1575)北条氏照によって祇園城は陥落し、小山秀綱は追放された。その後氏照は城を大規模に拡張・整備した。天正10年、小田原の役で小山氏は北条に味方したため北条氏と共に滅亡し、所領は結城秀康に与えられた。慶長5年(1600)関ヶ原の戦い前に小山の地で家康が重臣を集めて軍議を開き、石田三成を討つという決定をした(小山評定)。江戸幕府成立後、本多正純が3万石で城主となったが元和5年(1619)、正純は宇都宮へ転封となり、祇園城は廃城となった。(現地説明板、『とちぎの古城を歩く』塙静夫著 参照) |