粕尾城
粕尾小学校から県道15号を1.5km程北西へ進んで右手に粕尾郵便局を過ぎ、更に1.5km程進みます。右手に「森公民館」がある所を右折し(酒屋の手前)、道なりに100m程進むと左手に大手口の標柱があります(右写真)。この付近に駐車し、標柱の奥へと山へ入ると城跡です。
【道案内】
城跡の地図
別名 寺窪城
所在地 栃木県鹿沼市(粟野町)中粕尾森字館
遺構等 曲輪、土塁、横堀、堀切、碑
現状 山林
築城年 永徳2年(1382)
築城者 小山義政
歴代城主 小山
形式 平山城(比35m)
訪城日 2009/4 感想

三の丸の堀

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大手口

【歴史】
ちゃんとした登城道がなく、藪のため、適当に歩くと迷子になりそうです。山を登っていくと三の丸の立派な空堀があり(空堀跡の標柱有)、山頂には祠があってその少し下に「本丸跡」の標柱があります。ただし、本丸は藪です。城域が思った以上に広く、二の丸には空堀と土塁があります。また、先程曲がった森公民館から400m程西進した右手に「ホタルの里」の看板があり、その横にお城の説明板があります。
【感想・メモ】

山頂の祠


かすおじょう
永徳2年(1382)、宇都宮氏と下野国の守護大名の座を争った小山義政が関八州の鎌倉勢を迎え打つべく築城したといわれる。南北朝時代末期の康暦2年(1380)、小山義政は関東管領足利氏満に居城鷲城を攻められ、永徳元年(1381)降伏して祇園城に移り出家した。しかし、翌永徳2年3月、義政は自ら祇園城に火を放って逃れ、粕尾城・櫃沢城を築いて立て籠もり鎌倉幕府に対抗した。4月、広大な城に配する兵が不足し不利となったため、一子若犬丸を逃して川を渡り、対岸の陣の手で戦い、更に櫃沢城で最後の決戦後、自決した。若犬丸はその後小山氏再興のため兵を起こしたが戦い利あらず会津に逃れたが、応永4年(1397)自害した。(現地説明板、『とちぎの古城を歩く』塙静夫著 参照)