登城口は幾つかあります。
@南麓の「小谷城址ガイド館」駐車場(標95m)
A山腹駐車場(標270m)(本丸まで約10分)、
B「小谷城戦国歴史資料館」駐車場(清水谷経由で主尾根まで約50分)
C清水神社から山崎丸・福寿丸・大嶽城経由 |
山王丸東の大石垣 |
【感想・メモ】 |
本丸周辺や主尾根を見るだけならAがお勧めですが、小谷城は城域が広大で、至る所に立派な遺構があり、遊歩道も整備されているので、一日かけてBから清水谷の家臣屋敷→主尾根を横切って月所丸へ→主尾根に戻り、下りながら六坊〜山王丸〜本丸〜番所跡・金吾丸→六坊まで引き返し大嶽城へ→福寿丸→山崎丸と見て下山し、出丸だけ別に南麓から登って見ることをお勧めします。ただし、この山は熊が出るため単独行はやめた方がいいです。 |
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【歴史】 |
大永3年(1524)15代当主京極高清の家督争いの際、在地領主の浅井亮政が京極氏の重臣上坂信光を排除し、京極氏に替わって江北の実権を握った。大永4年、浅井亮政が主家京極高清を京極丸に迎えたことから、この頃小谷城は築城されたと考えられる。その後、亮政・久政・長政と浅井氏3代に渡って小谷城は栄えた。永禄4年(1562)浅井長政は織田信長の妹お市の方を妻に迎え、織田家と同盟関係を結んだが、越前朝倉氏とも同盟関係にあったため、元亀元年(1570)信長の越前朝倉義景攻めに際し浅井氏は信長に反旗を翻した。同年、姉川の合戦で浅井氏は織田・徳川連合軍に敗北し、天正元年(1573)小谷城は落城、浅井長政は自刃し、浅井氏は滅亡した。その後、江北12万石は羽柴秀吉に与えられ、天正3年、秀吉は今浜の地に新城を築いて長浜城と称し、小谷城は廃城となった。 |
【参考資料】 |
『近江の山城ベスト50を歩く』中井均(編)/サンライズ出版 |