【道案内】 |
登城口の地図 |
城跡の地図 |
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JR山陰本線「米子駅」から西へ約1.2km。国道9号で加茂川を「深浦橋」で北へと渡ります。ここから左前方に見える小山が城跡で道路に案内が出ています。登城口は幾つかありますが、車の場合、城の西側に駐車場があり、その向い側から登ると良いでしょう(登城口の地図)。 |
【感想・メモ】 |
城の北東側にある野球場が三の丸でその上が二の丸です。二の丸には大規模な桝形虎口や小原家長屋門があります。内膳丸は、家老の横田内膳が守ったので内膳丸と名づけられたそうです。この根本付近から遠見櫓方面へ向かってのびる登り石垣は必見。本丸周囲は石垣が見応えたっぷりで、番所跡からは竪堀も見えます。天守台からは海も、米子の町並みも一望できる360度のパノラマで素晴らしい!浮城である事が実感できます。遠見櫓の正面も海で絶景♪山麓から山頂まで見所盛り沢山のためあちこち歩き回って見てください。
米子城の詳細やパンフレットが米子市のホームページに掲載されています。 |
【歴史】 |
応仁年間(1467-77)、尼子氏に対抗するため、山名氏がこの地に砦を築いたといわれる。天正19年(1591)、吉川広家が城を大改修した。慶長5年(1600)、関ヶ原合戦で敗れた吉川広家は周防岩国へ転封となり、替わって中村忠一が入城して米子城築城を続けた。慶長14年(1609)、忠一が急逝し、嗣子が無かったため中村氏は断絶した。替わりに美濃黒野城主・加藤貞泰が入封したが、元和3年(1617)、大坂の陣の功で伊予大洲へ移った。加藤氏移封後、因幡・伯耆は鳥取城主・池田光政が領した。米子城には池田由之が入ったが、寛永9年(1632)、池田光仲の筆頭家老・荒尾成利が城主となって以後、荒尾氏が続いて明治を迎えた。 |
【参考資料】 |
『山陰の城館跡〜攻防の跡をたずねて〜』山陰史跡整備ネットワーク会議
『日本城郭大系』新人物往来社発行 |