新城城 |
別名 | |
所在地 | 新城市字東入船 |
遺構等 | 曲輪、土塁、空堀、櫓台、碑 |
現状 | 新城小学校 |
築城年 | 天正4(1576) |
築城者 | 奥平信昌 |
歴代城主 | 奥平、片桐、水野 |
形式 | 平城 |
訪城日 | 2006/9/30 |
しんしろじょう |
空堀 |
新城城縄張図 原図:高田徹氏 愛知県中世城館跡調査報告書V(東三河地区)より |
JR飯田線「新城駅」から南へ約500m、新城市役所から西南に約200m、国道151号からだと「警察署南」信号から1km程南に入ったところにある「新城小学校」が城跡です。 |
運動場の東側に城址碑と立派な空堀が、運動場の西側には土塁と櫓台が残っています。すぐ南を豊川が流れ、天然の要害だったようです。 |
天正3年(1575)長篠の戦いの後、長篠城主・奥平信昌が家康に伊奈道中の押さえの要地に城を築くよう命じられ、翌年築城したのがこの新城城である。天正18年、家康の関東移封に伴い信昌も上野国宮崎へ3万石で移った。その後、新城城は吉田藩主・池田輝政の領地となり家臣の片桐半右衛門が城代となったが、片桐氏は新城城に入らず石田城を築城したため、一時廃城となった。慶長5年(1600)、池田輝政が姫路城主となり移ったため、片桐氏も同行し、この地は天領となった。鳥山牛之助が代官となり支配したが、慶長11年、緒川城の水野分長が移り、この元網との2代で新城の城下町を整備した。正保2年(1645)、水野氏が安中城へ移封となったため再び天領となった。鈴木八右衛門隆政が代官となって支配したが慶安元年(1648)、丹波亀山より菅沼主水定実が戻って領地とした。それから明治まで陣屋をおいて交代寄合として支配した。 |
櫓台 |