梁川城 |
別名 | 鶴岡城 |
所在地 | 伊達市梁川町鶴ケ岡 |
遺構等 | 本丸庭園、土塁、復元石垣、説明板 |
現状 | 梁川小学校 |
築城年 | 13-14世紀 |
築城者 | 伊達常陸介朝宗 |
歴代城主 | 伊達、蒲生、上杉 |
形式 | 平山城 |
訪城日 | 2006/4/29 |
やながわじょう |
阿武隈急行「やながわ希望の森公園前駅」から南西へ約600m。国道349号で宮城県から南下して梁川町市街へ向かった場合、左折が県道102号と交差する信号を直進し、更に500m程南下した信号を左折します。300m程道なりに行くと正面に「梁川小学校」があります。この付近一帯が城跡です。 |
梁川小学校が本丸跡で、学校内に本丸庭園や土塁、復元石垣があります。またこの周囲一体が丘陵地となり、隣の高校付近などを散策していたら、何となく土塁の名残?堀跡??と思えるような場所もありました。また小学校の入口には、陣屋時代の図がついた説明板があります。 |
梁川は鎌倉時代以降伊達氏の本拠地で、13〜14世紀に伊達常陸介朝宗が築城した。天文元年(1532)伊達稙宗が桑折西山城へ移るまで伊達氏が居城した。奥州仕置により伊達政宗が岩出山城へ移ると、梁川城は蒲生氏郷の領地となり、氏郷死後は上杉景勝が領し、梁川城には須田長義を置いた。慶長5年(1600)関ヶ原合戦の際、徳川方の伊達政宗と石田方の上杉景勝の戦いが福島盆地で行われたが、この時、伊達軍が梁川城を攻めたが、長義によって撃退された。その後も上杉氏が領し、梁川城には上杉氏の家臣が置かれたが、寛文4年(1664)、上杉綱勝が嗣子無いまま急死し、本来なら改易となるところを吉良上野介の長男・綱憲を養子を迎え上杉家存続が認められたが、この騒動により上杉領は30万石から15万石となり、伊達郡は没収され、天領となり、梁川城もこのとき廃城となった。しかし、城の一部はその後も陣屋として使用され、明治を迎えた。 |