城跡の地図
会津若松城
別名 鶴ヶ城
所在地 会津若松市追手町
遺構等 復元天守、曲輪、土塁、空堀、石垣、井戸、碑、説明板
現状 鶴ヶ城公園
築城年 至徳元(1384)
築城者 芦名直盛
歴代城主 芦名、伊達、蒲生、上杉、蒲生、加藤、保科、松平
形式 平山城
訪城日 2006/5/2
【道案内】


【感想・メモ】
あいづわかまつじょう
【歴史】
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JR只見線「西若松駅」から東へ約1kmのところ。国道118号で会津若松駅の東側から2km程南下した左手(東側)にある公園が城跡です。公園に有料駐車場が完備されています。

詳しくは、こちらをご覧下さい。 ・・・ 「会津若松観光公社」
全体的に遺構が良く残っている上、天守が美しい。のんびり時間をかけて散策することをオススメします。
至徳元年(1384)、会津に下向した三浦一族・芦名氏7代直盛が築城した。天正17年(1589)、芦名氏20代義広の時、伊達政宗が攻略し入城した。天正18年、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が政宗から城を没収し、蒲生氏郷に会津92万石を与えた。氏郷は文禄元年(1592)城を大改修し、それまで黒川と呼ばれたこの地を若松と改め、城の名も「鶴ヶ城」と改めた。その後、氏郷の子・秀行が継いだが、慶長3年(1598)重臣の争いのため宇都宮18万石に移封となった。替わって、越後春日山城から上杉景勝(謙信の養子)が若松城主となるが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦で西軍に属したため米沢へ移封となった。慶長6年、再び蒲生秀行が若松城主となったが、秀行の子・忠郷に嗣子無く、寛永4年(1627)蒲生秀行の次男・蒲生忠知が伊予松山城に移り、替わって伊予松山城から加藤嘉明が入った。しかし、加藤明成は寛永20年に改易となり、徳川2代将軍秀忠の庶子・保科正之が出羽最上より23万石で入封した。3代正容の時に松平に改姓し、以後保科松平氏9代が続いて明治を迎えた。慶応4年(1868)に勃発した戊辰戦争では、最後の藩主・松平容保が官軍に対抗して篭城するが、1ヶ月後に米沢藩の仲介により開城した。この戦いの最中、飯盛山で煙に巻かれる天守を見て城が落城したと勘違いした白虎隊士20名が自刃する悲劇が起こったのは有名である。
案内図(現地案内板より)