佐貫城
登城口と大手門石垣
【道案内】
JR内房線「佐貫町駅」の東側にある、国道465号「駅前」信号を東進します。700m程東進した「佐貫」信号を直進し、更に700m程東進して、左手に変電所を過ぎ、そこから200m程東進した道路左手に佐貫城の碑や説明板があります。この奥の山が城跡です。道路の余白に駐車しました。
城跡の地図

応永年間(1394-1428)真里谷城主・武田氏が築城したといわれるが、それ以前に長尾氏が築いたとする説もある。その後、武田(真里谷)信隆が北条氏に応じて挙兵するが、逆に足利義明・里見義尭に敗北し落城した。天文7年(1538)第一次国府台合戦で里見氏は敗れ、武田氏が一時勢力を盛り返すが、城は再び里見氏の手に落ち、以後里見氏の城として義尭の子・義弘が入り里見氏の本城とした。永禄7年(1564)第二次国府台合戦で里見氏は北条氏と戦い、再び大敗を喫した。北条氏は勢いに乗じ、上総三船山へ進出。里見氏はこれを撃つべく出陣し、三船山付近で戦い勝利した。天正18年(1590)里見氏は小田原攻めに遅参したことを豊臣秀吉に咎められ、安房一国残すのみで領地を没収され、佐貫城には関東に入った徳川家康の家臣・内藤家長が2万石で入った。家長は関ケ原の合戦で戦死し、子の政長が継ぐ。元和2年(1622)政長が陸奥に移ると、松平忠重が1万5千石で入り、寛永10年(1633)には松平勝隆が、更に元禄元年(1688)には柳沢吉保が入るが、元禄7年、川越に転封となり佐貫城は廃城となる。その後、宝永7年(1710)阿部正鎮が三河刈谷から封ぜられ佐貫城を再興し、明治を迎えた。

【感想・メモ】
いきなり大手門石垣があり、その背後が三郭です。順路に従い右へ曲がると、そっちは少し藪。更に進むと二郭でスゴイ藪ですが、その先の土橋や堀は見やすく、かないカッコいいです。左手の堀は水堀になっています。この奥が主郭で北と南に物見台があります。佐貫城の周囲は岩盤の所が多く、下から回り込んで見ると、このすぐ下も岩盤が削られているのが分かります。また、主郭北の物見台の北側は岩盤をくり貫いた堀切になっており、この下には搦手の石積みも見られます。藪の部分があるものの、素晴らしい遺構が見られ満足できます。
主郭北下の堀切
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別名 亀城
所在地 千葉県富津市佐貫字小和田谷
遺構等 曲輪、石塁、土塁、空堀、水堀、堀切、土橋、碑、説明板
現状 山林
築城年 応永年間(1394-1428)
築城者 武田氏
歴代城主 武田、里見、内藤、松平、柳沢、阿部
形式 平山城(比49m)
訪城日 2009/3 感想

【歴史】
さぬきじょう
主郭手前の横堀