城跡の地図
大胡城

本丸

二の丸虎口

本丸部分が城址公園となっており、公園へと西進する途中、ガードをくぐる手前右手に城址碑があります。本丸の土塁と堀はかなり立派で見応えがあり、この南側の二の丸虎口には石垣もあります。大胡神社や大胡幼稚園も城域で、公園南側は三の丸だったようです。
【感想・メモ】

別名
所在地 前橋市(大胡町)河原浜町660−1
遺構等 曲輪、土塁、横堀、石垣、碑、説明板
現状 城址公園、、大胡神社、大胡幼稚園、宅地
築城年 天文年間(1532-55)
築城者 大胡氏
歴代城主 大胡、牧野
形式 平山城
訪城日 2008/10
【道案内】
【歴史】

おおごじょう
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上毛鉄道「大胡駅」から北北東へ約700m。大胡神社・大胡幼稚園のすぐ南側、大胡中学校から北東へ約120m、前橋市役所大胡支所から北へ約150m。大胡駅から500m程北上して右折し、100m程東進して「橋西詰」信号を左折し県道16号に入ります。300m程北上して左折し、100m程西進した突き当たり周辺一帯が城址公園になっており、駐車スペースがあります。
天文年間(1532-55)、秀郷流藤原氏の一族で、東毛の豪族である大胡氏が築城した。天文10年(1541)、太田金山城の横瀬泰繁の勢力拡大により、大胡勝行は後北条氏を頼って牛込城へ移った。上杉謙信が関東進出した際は、大胡城には謙信の重臣北条高広が入った。謙信死後、高広は厩橋城主となり武田勝頼に従い、大胡城には大胡高繁が入った。その後、両者とも後北条氏の配下となったが、天正18年(1590)小田原の役で後北条氏が豊臣秀吉により滅亡すると、徳川家康が関東に入部し、牧野氏が大胡領2万石に封ぜられ、康成、忠成二代の居城となった。牧野氏は元和2年(1616)に越後長嶺へ、そして長岡へと転封された。以後大胡城は前橋藩領となり、酒井氏時代には城代が置かれたが、寛永2年(1749)酒井氏が姫路へ転封となり、大胡城は廃城となった。城は南北670m、東西最大巾310mの規模の平山城であった。(現地説明板参照)