延徳年間頃(1490頃)、長尾忠房が石倉に新城を築いたのが始まりとされるが、利根川の洪水により押し崩され、箕輪城主長野氏の一族である長野賢忠が残った三の丸に築いたのが厩橋城であるという。 天文20年(1551)関東管領上杉憲政が北条氏に敗れ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って亡命すると、賢忠の子道安は北条に従い、福島頼季、師岡山城守らが進駐した。永禄3年(1560)上杉謙信は関東進出の拠点として厩橋城を攻略したが、永禄6年、北条・武田連合軍に攻め落とされた。同年、再び上杉氏が城を取り戻し、北条高広を城代とした。謙信死去の翌年である天正7年(1579)、高広は武田勝頼に降伏し城を明け渡したが、天正10年3月、武田氏が織田信長によって滅亡すると、織田氏の部将滝川一益が城主となった。しかし、同年6月、本能寺の変によって信長が横死し、一益は北条氏直・氏邦勢と神流川合戦にて敗北を喫し関東から撤退、再び厩橋城は北条氏に帰した。天正18年(1590)小田原の役で豊臣秀吉の武将浅野長政が厩橋城を攻略し、北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入封すると家康の譜代平岩親吉が入城した。慶長6年(1601)関ヶ原合戦後、親吉は甲府藩に移封となり、代わって酒井重忠が入城し、城を近世城郭へと大改修した。慶安2年(1649)には「厩橋城」から「前橋城」に改称されたが、度重なる利根川の氾濫により城は浸食され、明和5年(1768)松平朝矩は居城を川越に移し、前橋城は廃城となり、前橋には川越の支藩として陣屋が置かれた。幕末、国情から江戸東北の固めとして前橋城再築の必要が生じ、文久3(1863)年着工、慶応3年(1867)1月に城は完成し松平直克が入封したが、廃藩置県により廃城となった。(『日本城郭大系』参照) |