富松城
「富松城跡前」信号を左折して少し南下した左手に説明板があります。県道606号沿いと、この説明板がある通り沿いに土塁と横堀(水堀跡)が残っています。発掘調査から、土塁と二重の堀を備え、東西150m以上、南北200m以上の城館だったと推定されているとのことです。
【感想・メモ】


【歴史】
【道案内】
城跡の地図
この地は平安時代から富松荘と呼ばれ、薬師寺氏が荘園管理を任されていた。長享元年(1487)の史料に富松城の名がみえることから、その頃には築城されていたと思われる。永正4年(1507)以降、室町幕府三管領の一家に数えられ、摂津など畿内周辺の数カ国の守護を占めていた有力大名細川氏の分裂抗争を発端とする戦乱が尼崎地域に及ぶと、西摂地域の重要拠点であった尼崎城伊丹城越水城のほぼ中間地点に位置し戦略上の要地である富松城は戦乱の主要な舞台の一つとなった。

参考資料
『日本城郭大系』新人物往来社発行
『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』兵庫県教育委員会発行
現地説明板
阪急神戸線「武庫之荘駅」から北東へ800m。尼崎北小学校から県道606号で500m程西進すると「富松城跡前」信号となりますが、このすぐ手前左手が城跡です。
別名 東富松城
所在地 兵庫県尼崎市富松町2丁目13
遺構等 土塁、横堀、説明板
現状 宅地
築城年 長享元年(1487)以前
築城者 薬師寺氏?
歴代城主
形式 平城
訪城日 2011/2 感想
とまつじょう
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