本地域は長野県最古の古文書『天養文書(天養2年(1145)』に初見される、最勝寺領小川庄に属する。古山城は現在天神社がある所が最初の本城といわれ、城の守護社がそのまま残存したと推定される。城主は小川左衛門貞綱で、室町時代、三河国小川苅谷城主であったが、足利義満によって南北朝が統一されると、南朝に属していた貞綱は無実の罪によって官位を下げられ、信濃の山中に追放された。元中9年(1392)古山城を築き城主となり、貞綱、綱義、定縄と3代78年間にわたりこの地方を治め勢力を持った。しかし、当時信濃で大勢力を誇っていた村上顕国の命に背いたため顕国は牧ノ島城主香坂安房守に定縄追討を命じ、安房守は猶子大日方小五郎長利(後に長政)とともに古山城を攻めてこれを破った。顕国は戦功を称え小川郷を長政に与えた。小川定縄はかっての領地、三河の小川苅谷に復帰し、罪を許され水野と改姓し、徳川に従い、水野忠政の時大名になったという。定縄攻略の年次は、応仁2年(1468)、永正2年(1505)、天文5年(1536)の諸説ある。長政の後継者・直忠は5人の子があったが、武田と上杉のいずれにつくかで対立し、武田抗戦を主張する長男金吾介直経を謀略で殺害した。この霊を弔うため、主郭に金吾様と称する祠が建立されている。天正10年(1582)武田氏滅亡後、上杉景勝に大日方氏は仁科領内に新地を安堵された。(『現地説明板』、『図解 山城探訪』参照) |