城跡の地図
【歴史】
鷲見城
【感想・メモ】
城跡は公園になっていて遊歩道があるため歩きやすいですが、イマイチ不案内。単郭の城と言われているものの、主郭以外に東の郭や西の郭があります。東の郭は展望台になっており、堀切を隔てて主郭に着きます。主郭は枡形虎口が残り、土塁も見られます。沢山の碑も。西の郭は神社になっており、更に北出丸もありました。全体的によく残っており見やすいお城です。

別名 向鷲見城
所在地 郡上市高鷲町大鷲
遺構等 曲輪、土塁、竪堀、堀切、枡形虎口、碑、説明板
現状 公園、山林
築城年 永暦元年(1160)頃
築城者 鷲見頼保
歴代城主 鷲見
形式 山城(比90m)
訪城日 2005/11/5
【道案内】
すみじょう
県道452号「高鷲小学校」から200m程南西へ進むと右手に「浄勝寺」がありますが、この寺の先で左折して100m程進み右折して200m程西進すると、川の手前右手に城の説明板があります。ここから正面の川の手前を左手の道へ行き、そちら側(左側)にある橋を渡って真っ直ぐ山へ向かうとまた城の説明板があります。ここを左手へと山に入っていくと城跡です。最初に説明板がある場所に駐車場があるので、そこに車は停めて歩いていくと良いと思います。
永暦元年(1160)頃、奥美濃の国人・鷲見頼保が築城し、代々居城した。承久6年(1221)の承久の乱で、頼保の孫家保は幕府軍に従い、その恩賞で鷲見郷の地頭職を任ぜられた。建武2年(1335)、足利尊氏の挙兵に際し、鷲見忠保は東氏や土岐氏に従い、尊氏側について戦功をあげ、領地を広げた。その後、鷲見氏は東氏に属しが、阿千葉城に居た貞保は篠脇城の東常慶に攻められ自害した。鷲見氏は東氏と和陸するが、その後、遠藤盛数、慶隆に仕え郡上八幡城下の屋敷に住み、鷲見城は家臣・松下五左衛門が守った。慶長5年(1600)頃、廃城となった。
堀切
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縄張図(現地説明板より)
駐車場の地図