徳倉城

別名
所在地 岡山県岡山市(御津町)北区御津河内
遺構等 曲輪、土塁、石垣、堀切、竪堀、井戸、説明板
現状 山林
築城年 文明年間(1469-87)?
築城者 松田親秀?
歴代城主 松田氏、宇垣氏、遠藤氏
形式 山城(比175m、標232m)
登城口から主郭まで約20分
訪城日 2010/5 感想

搦手の空堀

井戸

城跡の地図
搦手登城口
大手登城口
【道案内】
【感想・メモ】
私は大手登山道の存在を知らず搦手から登りました。5分程登ると右手に尾根近くまで続く長い空堀がありますが城の遺構なのでしょうか?登り始めて12〜13分で尾根に出て、右手へ進みます。尾根までの道もきつかったのですが、ここから落ち葉が積もり道が埋もれた所もあったりでかなり歩きにくく、体力を消耗します。途中、石積みが見えてきて更に4〜5分登ると本丸です。本丸北側には石塁があり、妙見宮が鎮座しています。この東側にかなり立派な石垣があります。この少し下に井戸があり、そのまま下っていくと堀切があり、更に下方には出丸があってその先にも堀切があります。このまま道なりに大手登山道を下山したのですが、このお城は大手から登り、本丸背後まで見たら引き返して大手で下山した方が道が良く歩きやすくてオススメです。
築城については詳細不明だが、文明年間(1469-87)備前松田家を再興した松田元隆の三男親秀が金川城の出城として居城したといわれる。その後、松田氏重臣・宇垣氏が代々居城し、天文年間(1532-55)〜永禄5年(1562)頃は宇垣市郎兵衛が城主だった。永禄11年(1568)宇喜多直家が松田氏を滅ぼし備前国西半を支配すると、直家の寵臣遠藤河内守を徳倉城主とした。宇喜多氏が戦国大名としての支配を確立し岡山城へ移ると、天正末年(1591)頃には河内守は岡山へ移住し、徳倉城には城番を置いた。慶長5年(1600)関ヶ原合戦で宇喜多氏が没落し、小早川秀秋が備前国主になると、徳倉城は廃城となった。

(『日本城郭大系』新人物往来社発行、現地説明板 参照)
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JR「金川駅」南約600mの国道53号「宇垣」信号を西へと県道61号へ入り、道なりに2.5km程西進して左折すると「徳蔵神社」があり、この南側に谷筋を登る搦手登山道があります(神社付近から道路に案内有)。また神社の300m北の川沿いに大手登山道(表示有)があります。
【歴史】

本丸東の石垣

とくらじょう