城跡の地図
備中松山城(小松山)

【感想・メモ】
いきなり天守へ向かわずに、まずはふいご峠駐車場に着いたら天守と反対側の左手の山へ。こちらにも郭があり、立派な石垣が残っています。天守へと登っていく道の途中からは、これでもか!というくらいに石垣が見えてカッコいいです。そして現存天守もステキ。大満足できる素晴らしいお城です。
TOPページへ
別名
所在地 岡山県高梁市内山下
遺構等 現存天守、曲輪、石垣、土塁、空堀、碑、説明板
現状 城址公園、山林
築城年 天和3(1683)
築城者 水谷勝宗
歴代城主 水谷、安藤、石川、板倉
形式 山城
訪城日 2003/11/15 感想
【道案内】

びっちゅうまつやまじょう
国道484号と国道180号が交差する「警察署北」信号北へと国道180号に入ります。2km程北上した「川端町」信号を右折し(道路に案内が出ています)、あとは案内に従って道なりに山へ登っていき、ふいご峠駐車場まで車で上がれます。土・日・祝は手前の城見橋公園駐車場までしか自家用車は入れません。お城へは、ここからバスに乗り換えて行く事になります。そこから15分も歩けば城跡です。
鳥瞰図(現地説明板より)
仁治元年(1240)、有漢郷地頭・秋庭三郎重信が臥牛山の大松山に砦を築いた。元弘年間(1331-34)、備後の三好一族・高橋九郎佐衛門宗康が入城し、城を拡張して小松山まで城域とした。その後城主は高氏・上野氏・庄氏・尼子氏と替わり、永禄4年(1561)成羽鶴首城主・三村家親が尼子氏を討って城主となった。天正2年(1574)毛利・宇喜多連合軍と三村氏が戦い、三村氏は滅んだ。慶長3年(1600)関ヶ原合戦後、徳川家康は国奉行として小堀正次・正一父子を入城させた。その後、正一は移封となり、因幡鳥取から池田長幸が入城したが、子・長常に嗣子がなく断絶した。その後、水谷氏が入って3代続いたが、世継がなく改易となった。この水谷氏の時代に現在のような近世城郭へと改修し、現存天守もこの時代のものである。その後、安藤重博・信友・石川総慶が城主となったが、延享元年(1744)石川氏に替わって伊勢国亀山から板倉勝澄が入城し、以後板倉氏が7代続いて明治を迎えた。
【歴史】