【道案内】 |
登城口の地図 |
城跡の地図 |
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比熊山城の東方約4km、熊野神社北東の山が城跡です。県道434号「畠敷」信号から700m程東進した「岩屋寺口」バス停付近を左折し、150m先の2本目を左折、すぐを左折して300m程北上し川を西へ渡り、まずは案内板の岩屋寺山公園を目指します。この先、つづら折れの林道ですが道は舗装されています。2km強上って岩屋寺との分岐も過ぎ、更に300m程北上すると左手に城の案内があり、ここが登城口で付近に駐車可能です。 |
【感想・メモ】 |
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ここからだと主郭までの比高は50m程度で、登城道は整備されています。すぐ右手に池が見え、山へ入ってすぐを左(南)へ進むと奥に石垣が見られます。登城道へ戻るとすぐに堀切があり、ほとんど登らず短時間で立派な遺構が見られて嬉しくなります。この上の北郭には土塁があり、主郭切岸が見事です。主郭は東側に高い土塁があり、南東にある門跡の先が二郭で、西側が三郭となります。三郭の南から北東へ細い道を進むと穴蔵があり、更に先へ進むと岩堀切や石垣、散在する石がありました。このまま北へ進むと最初に見た堀切の一段上となります。三郭南には竪堀が3つあるようですが藪で確認できず、また東へ下っていくと主尾根の1本東の尾根に南北に郭群があるようですがこちらも藪であまりに歩きにくく途中で引き返しました。三郭から南尾根へ下る道は整備され、大堀切の先にある広い郭は北側にびっくりする程の高い土塁があります。この南尾根に熊野神社の案内があったので、山の南麓から登城も可能かと思います。また、北郭の北側は堀切と竪堀が複雑に入り組んでいて面白いです。 |
【歴史】 |
源頼朝による藤原泰衡追討の功により建久3年(1192)三次の地頭職となった佐々木秀綱が三吉氏を称したのが始まりという。承久の変で佐々木三吉氏は敗れ、その後、藤原兼範が三次に移り住み、その子兼定が三吉姓を名乗った。以後、三吉氏は周辺に所領を広げ、天文10年(1541)尼子氏と共に郡山城の毛利氏を攻めたが敗北。翌11年、今度は大内氏による尼子氏の月山富田城攻めに加わるが失敗した。天文13年、尼子方は比叡尾山城に攻撃の手を差し向けるが、毛利元就が三吉方を援助して尼子勢を敗走させた。天文22年、三吉氏は毛利氏に属し、天正19年(1591)、城主三吉広高は本拠を比叡尾山城から比熊山城へ移した。 |
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【参考資料】 |
北東の堀切 |
門跡 |
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』広島県教育委員会発行
『日本城郭大系』新人物往来社発行 |