【道案内】 |
城跡の地図 |
山中御殿手前P |
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「道の駅広瀬・富田城」背後の山が城跡で、道の駅から登るか、道の駅から南下してすぐの分岐を左折し、道なりに上がっていくと山中御殿手前に駐車場があります。 |
【感想・メモ】 |
先に資料館で展示品を見た後、お城へ。太鼓壇北方に尼子氏之碑があり、この南方に山中鹿助像がたっています。花の壇には建物が復元され、この南の堀切の先が山中御殿です。石垣、虎口、井戸、更に池のような大井戸など見所盛り沢山。ここから山頂部へ。途中山吹井戸を見ながら七曲りを経て山頂部へ。三郭・二郭は周囲の石垣がしっかりし、二郭堀切の先が主郭で眺望が素晴らしく、南東端に勝日高守神社が鎮座しています。また、この背後に堀切があり、遊歩道から1条だけ確認できます。更に、西側に隣接する巖倉寺の石垣も立派です。周辺の関連史跡も是非散策しましょう。一部を新宮谷城館群ページで紹介しています。 |
【歴史】 |
明徳2年(1391)、京極高詮の守護代として一族の尼子持久が富田城主となった。その後、清定・経久と3代続く間に守護京極氏と対立し、経久は富田城から追放された。文明18年(1486)、経久は富田城を奪還し、経久・晴久・義久の3代で出雲・隠岐・石見を中心に11ヶ国に勢力を拡大した。永禄9年(1566)、毛利元就に城を包囲され尼子義久は降伏し、尼子氏は滅亡した。その後、毛利氏が領したが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦後に防府・長門の2国に減封された毛利氏に替わって、関ヶ原合戦で戦功のあった堀尾吉晴・忠氏父子が遠江浜松から入城した。慶長16年、堀尾氏は松江城を築いて移ったため富田城は廃城となった。 |
【参考資料】 |
『島根県中近世城館跡分布調査報告書(出雲・隠岐の城館跡)』島根県教育委員会発行
『山陰の城館跡〜攻防の跡をたずねて〜』山陰史跡整備ネットワーク会議(小冊子) |