小豆坂古戦場 |
別名 | |
所在地 | 岡崎市美合町小豆坂 |
遺構等 | 碑、説明板 |
現状 | |
築城年 | |
築城者 | |
歴代城主 | |
形式 | 古戦場 |
訪城日 | 2007/7/7 |
天文4年(1535)、三河を統一した松平清康(家康の祖父)が尾張守山で家臣に殺されると、弱体化した松平氏に対して尾張の織田信秀(信長の父)は、安城を拠点に矢作川東岸部への進出を計った。これを望まない今川義元は、天文11年、軍勢を生田原に進め、出撃してきた織田勢とこの小豆坂で戦った。この時、織田方の七名が槍をふるって奮戦し、小豆坂七本槍と呼ばれ、彼らが槍を立てて休息したと言われる松を「槍立松」と言う。これ以降、今川氏との関係を深めた松平広忠(家康の父)に対し、天文17年3月、織田信秀は岡崎へ出陣した。一方、今川義元は広忠救援のため、太原雪斎を大将として軍勢を送り、両軍は小豆坂で合戦をした。この戦いは、松平家臣酒井正親らの活躍により、今川・松平連合軍が勝利した。今川・織田両者の争いは、永禄3年(1560)桶狭間の戦いまで続いた。桶狭間合戦後、独立を果たした徳川家康は一向一揆と対立した。永禄7年、土呂・針崎の一揆勢と家康が小豆坂・馬頭原で衝突し、家康方の勝利により一揆は終息を早めた。このように小豆坂一帯は合戦場として、槍立松、血洗池、馬洗池、千人塚など多くの伝承を残した。 |
戦没者記念碑
槍立松
小豆坂古戦場碑と一緒にある槍立松碑と血洗池碑は平成5年に付近からこの地へ移設したものです。この1つ南の信号「不吹田北」角の道路反対側には、徳川・織田・今川の紋が入った石碑があり、更に150m程南にある「フィール」(スーパー)の前には、戦没者の記念碑があります。 |
血洗池
名鉄名古屋本線「男川駅」から南へ約900m。県道48号と県道26号が交差する「光ヶ丘女子高前」信号から県道26号を50m程南下した道路左手(東)に碑と説明板があります。 |
紋の碑と説明板
あずきさかこせんじょう |