城跡の地図
三戸城
別名 留ケ崎城、三戸高城
所在地 三戸町梅内字城ノ下
遺構等 復興天守、石垣、土塁、空堀、門跡、碑、説明板
現状 城山公園
築城年 永禄年間(1558-70)
築城者 南部晴政
歴代城主 南部
形式 山城(比90m)
訪城日 2005/5/2
【道案内】


【感想・メモ】
さんのへじょう
【歴史】
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虎口
鍛治屋御門石垣
国道4号で十和田市方面から三戸町方面へ南下した場合、右手に南部町役場を通り過ぎて800m程行った「沖田面」信号の次の信号を左折して県道258号に入ります。馬淵川を渡り、1.5km程南下して再度「馬淵川」を渡ります。更に1.5km程行って熊原川を「黄金橋」で渡り、500m程南下した信号を左折して、県道134号に入ります。200m程東進すると城山公園への入口があるので、そこを左折し城山公園へと上って行きます。この公園が城跡で、公園内に駐車場があります。(私が行った時は、駐車料金は有料300円でした)
車で本丸まで上がれるので楽チンです。本丸には本丸跡の碑や説明板がありましたが、何せ桜が満開で花見のシーズン。出店が沢山出ている上、花見客で大賑わい。おかげで、お店に隠れて写真が撮れない場所などありました。土塁や空堀を堪能した後、駐車場裏手の道路を下っていくと「鍛治屋御門跡」があり、ここに石垣がかなり残っていました。これは見応えありなのでオススメです!
永禄年間(1558-70)、南部氏の祖・南部三郎光行から24代目の南部晴政が築城した。光行は甲斐源氏の流れを汲む武将で、文治5年(1189)源頼朝による奥州藤原氏討伐の軍功により、糠部郡を中心に5郡が与えられ、この地に土着した。 鎌倉〜室町初期にかけては八戸根城を本拠とする八戸南部氏が勢力を誇っていたが、室町中期の康正年間(1455-56)以後、三戸南部氏の勢力が急速に強まり、南部晴政の父・安信の時、最盛期を迎えた。晴政が居城していた聖寿寺館(本三戸城)が天文8年(1539)家臣の放火で焼失したため、三戸城を築き居城とした。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際、南部氏26代城主・信直は千の兵を率いて出陣。信直は秀吉に南部7郡の所領を安堵された。また、南部一族で九戸城主の九戸政実が天正19年(1591)反乱を起こしたため、秀吉と共に信直軍が九戸城を攻め落とし、この功により10万石に加増され、更に九戸城を与えられた。しかし、三戸・九戸の城では所領支配に不便なため、信直は文禄2年(1593)盛岡に築城着工。寛永10年(1633)、南部氏28代南部重直の時、盛岡城が完成し、居城とした。その後、三戸城には南部氏の城代が置かれ、貞享年間(1684-87)からは代官が常駐して、三戸御古城と呼ばれるようになった。