【道案内】 |
登城口1の地図 |
登城口2の地図 |
城跡の地図 |
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県道220号で秋田自動車道を西へくぐり、500m程西進して右折します。400m程北上した正面「常福院」で左折し、道なりに右カーブしてお寺の背後へ進むと右手に訪城者用の駐車場があります。ここが登城口1で、城の西端に出ます。県道220号の1本北の集落を東西に走る通り沿い「神明社」入口(秋田自動車から西へ約150m)が登城口2です。ここから登ると城の東端に出ますが、駐車場が無く、比高差も35m程登城口1よりあります。 |
【感想・メモ】 |
浦城は東西にかなり長いお城です。登城口1から鳥居をくぐって5〜6分登ると「首人」と表示のある浦城西端の堀切に出ます。この東の郭には物見櫓や柵があって雰囲気を醸し出しています。更に東へ進むと堀切の先に広い屋敷跡があり、この東の堀切も鋭く、次の郭(屋敷跡)にも物見櫓や柵があります。次の堀切の先が鐘撞堂で、武者溜・主郭と続きます。主郭には大きな井戸があってびっくりします。主郭の先は少し離れて二郭があり、先端からの眺望が良いです。また、城の西から2つ目の堀切を「見張り台・駐車場」の案内がある方へ下ると、ここにも物見櫓がありこちらの眺望も素晴らしいです。ここから駐車場の真ん前の「武者返しの坂」を通って下山できます。「NPO法人 浦城の歴史を伝える会」が駐車場にパンフを置いてくれたり、城内を整備してくれていて、とても見学しやすく、遺構の保存状態も良いのでオススメのお城です。 |
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【歴史】 |
築城年・築城者は不明だが、戦国期には三浦氏が居城した。三浦氏は鎌倉時代に頼朝の重臣で相模三浦半島を領地としたが、北条氏の策謀により壊滅状態となり、一部が関東管領上杉氏に身を寄せ、武田と上杉の抗争時には武田方となり、永禄10年(1567)頃、甲斐の国人として秋田に赴任し浦城主となった。三浦氏は湊安東氏の家臣として厚遇されたが、天正17年(1589)、安東氏の内紛(湊騒動)で湊安東方の総大将として檜山安東氏と抗戦した浦城主・三浦兵庫守盛永は敗れて自刃し、浦城は落城した。 |
【参考資料】 |
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『日本城郭大系』新人物往来社発行、現地説明板、現地パンフレット |