丸尾城
【歴史】
城跡の地図
本光寺というと、愛知県幸田市にある本光寺を思い浮かべていたら、同じ深溝松平氏の菩提寺だったので納得しました。どちらのお寺にも立派な深溝松平氏代々のお墓があります。ここの本光寺の奥には首無し地蔵があり、その背後のやや小高い墓地にお城の説明板があります。石垣が所々に残っています。
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別名
所在地 長崎県島原市本光寺町
遺構等 石垣、空堀、説明板
現状 本光寺
築城年 戦国期
築城者 島原氏
歴代城主 島原
形式 平城
訪城日 2007/11/26
【道案内】

現在、深溝松平家をはじめとする墓所になっている小高い丘は、戦国時代には島原氏の砦である丸尾城だった。天正12年(1584)3月24日、肥前日野江城主・有馬晴信および援軍の薩摩島津氏の連合軍(約6千人)と、島原半島制圧をもくろむ佐賀の龍造寺隆信(約2万5千〜6万人)との間に、九州の覇権をかけた合戦がこの島原の地で行われた(沖田畷の戦い)。佐賀方は多人数であり、部隊を三軍(海手・中央:隆信本隊・山手)に分け、森岳(現島原城)の有馬・島津本陣を目指した。この丸尾城では、佐賀方の山手方面隊の鍋島直茂を、島津の将猿亘信光が迎え撃ち、激戦が繰り広げられた。鍋島勢の攻撃は激しく、猿亘の嫡子弥次郎も打たれ、陥落寸前の時に本隊の龍造寺隆信戦死が伝わり、鍋島勢は退却した。勝利した有馬晴信は領国を保全し、援助してくれた宣教師達とのつながりを深め、島原半島一帯はキリシタンの国となった。しかし徳川家康がキリスト教を禁教した後、強固な信仰を持った領民を有馬氏統御できず国替えとなり、島原の乱の遠因となった。(現地説明板より)
【感想・メモ】
まるおじょう
島原鉄道「島原駅」から西へ約1.5km。島原工業高校から300m程北上して左折すると「本光寺」があり、このお寺から背後の墓地が城です。本光寺の参拝者用駐車場を利用しました。