立花山城
別名 立花城
所在地 福岡県新宮町立花口
遺構等 曲輪、石垣、井戸、説明板
現状 立花山
築城年 建武年間(1334-36)
築城者 大友貞載
歴代城主 大友(立花)
形式 山城(比270m)
登山口から主郭まで約25分
訪城日 2007/11/23
たちばなやまじょう
【道案内】 城跡の地図 登城口の地図
登城口は幾つかありますが、北麓の立花口がおススメです。梅岳寺の南南東約250mや六所神社に登山者用駐車場があります。登山口は梅岳寺から南へ進み、すぐに左折、道なりに進んで右折し、梅岳寺からだと1本東の山へ向かう道の道路終点です。
【感想・メモ】
門跡付近の石垣



井戸
駐車場から登山口まで約15分歩き、梅岳寺には立花道雪のお墓があります。登山口からハイキングコースとなり、ハイカーも多いです。複数の峰にわたり遺構があり、最高峰の井楼山が本丸です。登り始めてすぐ「修験坊の滝ルート」との分岐があり、初めて訪れるなら直進の「立花山ルート」がお勧め。「山頂まで600米」の案内を過ぎ少し行くと、右に「石垣跡」のプレートがある。ここを直進すると主郭方向、右へ進むと主郭と松尾山の間の尾根に至り、この尾根に出る直前に城内最大規模の石垣があるので、行きか帰りに寄ると良いです。本丸の東端からその東の曲輪の斜面に石垣、本丸の南尾根にも遺構、西へ下りた曲輪に石垣、ここから西へのびる尾根の曲輪群(小つぶら)に石塁、最下段の曲輪には東側に畝状竪堀を備えている。本丸と北西の松尾山の間にも曲輪や石垣、この鞍部と南西の秋山谷へ向かう谷沿いに多くの曲輪がある(イバノヲ・大タヲ)。松尾山には西方に堀切や連続竪堀があり、この西が白岳。また、イバノヲ・大タヲの西峰が大つぶらで、その南と南東には秋山谷がある。この他、屏風岩から大クスの表示がある方へ少し進むと略図が設置され、それに従い左へ折れると最初の峰が馬責場で石積みを伴った土塁がある。その東峰が大一足、更に南東へのびた尾根が小一足である。馬責場を訪れた場合、屏風岩まで戻らなくても「修験坊の滝ルート」で下山することもできる。城域が広く全ては難しい場合、最低でも主要部の井楼山と、松尾山までの鞍部は歩くと良い。
【歴史】
建武年間(1334-36)足利尊氏の家臣として仕えた大友貞宗の子・貞載が築城した。貞載は地名から立花姓を名乗り、以後、立花氏は勢力を誇った。戦国時代には有数の貿易港・博多の利権をめぐって立花城を舞台に熾烈な争奪戦が繰り広げられた。大友宗麟支配下の永禄12年(1569)、毛利元就に攻められ落城したが、山中鹿之介ら尼子氏残党が出雲に攻め込んだため、元就はこの城を放棄し、大友氏が奪還した。その後、城主立花鑑載が戦死し、大友宗麟の命で重臣・戸次鑑連が豊後の家督を嫡男宗義に相続させ、立花城主とした。翌永禄13年、義宗は立花道雪と改めたが、道雪死後は婿養子の立花統虎が入城した。豊臣秀吉による九州征伐後、統虎は柳川城主として移った。立花山城には小早川隆景が入ったが、水軍を得意としたため海に近い名島に城を築いた。その後、慶長6年(1601)には黒田氏が名島城に入って福岡城を築城したため、立花城は廃城となった。福岡城の城壁の石は、この立花城から移送したものが多い。

本丸