皆川城
皆川城東小学校から西へ約800m。栃木市街地方面から県道75号で西進し、東北自動車道をくぐります。更に300m程西進して右折し、200m程西進して右折すると左手に栃木市役所皆川出張所があります。この北側の山が城跡で城址公園になっています。山麓に駐車場が完備されています。
【歴史】
小山氏の一族長沼宗政(長沼氏の祖)の子時宗の長男宗員が長沼荘から皆川荘へ移り、寛喜年間(1229-32)現在の皆川城の南東麓に居館を構えて皆川氏を称した。皆川氏は宗員を含め6代続いたが、元亨3年(1323)宗常の時に鎌倉幕府執権・北条高時に背いて自害し、所領を没収され皆川氏は断絶した。今に残る皆川城の築城年・築城者は諸説あるが、15世紀前半に長沼秀宗が築いたと考えられる。秀宗も皆川氏を称した。天正12年(1584)北条氏政・氏直父子が大平山方面から攻撃してきたが、城主広照は義兄壬生義雄の応援も得て防戦し、佐竹義重の仲介により和議を結んだ。以後、広照は北条氏に与し、天正18年、豊臣秀吉の小田原攻めの際も小田原城に籠城した。その隙に皆川城は上杉景勝・浅野長政らに攻められて落城した。広照は機を見て秀吉に降り、皆川城・川連城の代替として栃木城を築いた。しかし、慶長14年(1609)皆川氏は領地没収となり栃木城は廃城となった。(『とちぎの古城を歩く』塙静夫著 参照)
別名 螺貝城
所在地 栃木県栃木市皆川城内町字城山
遺構等 曲輪、土塁、横堀、竪堀、碑、説明板
現状 城址公園
築城年 寛喜年間(1229-32)
築城者 皆川宗員
歴代城主 皆川
形式 山城(比80m)
訪城日 2009/4 感想
城跡は高速道路のすぐ北側にあり、草刈りもされているため、高速からでも山容が良く分かります。出張所があった付近は館跡で、土塁と堀が残っています。また駐車場には説明板もあります。城跡は公園整備する際、遺構を壊してしまった箇所もあるのが残念で、ちょっと手を入れすぎて面白味に欠けたりします。それでも、南側の折れ曲がった竪堀や南麓の横堀は見応えあります。西南約400mにある金剛寺は皆川氏の菩提寺で歴代城主のお墓があります。
【感想・メモ】

横堀

【道案内】
城跡の地図

竪堀


本丸

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みながわじょう