高坂館 |
別名 | |||
所在地 | 埼玉県東松山市高坂834 | ||
遺構等 | 土塁、横堀 | ||
現状 | 高済寺 | ||
築城年 | |||
築城者 | 高坂氏? | ||
歴代城主 | 高坂氏?、加賀爪氏 | ||
形式 | 館 | ||
訪城日 | 2009/2 | 感想 | △ |
たかさかやかた |
東武東上線「高坂駅」から北東へ約500m。高坂駅から150m程東進して県道344号を横切り、更に300m程東進した2本目の路地を左折します。300m程北上すると「高済寺」があり、ここが館跡です。お寺に参拝者用駐車場があります。 |
お寺の西側に、高さ2.5m・幅5m程のかなり立派な土塁と空堀が南北に100m程もあります。この南と北端は一段高く櫓台になっており、南端は城山稲荷が、北端には加賀爪氏累代の墓があります。他にも、東側の川沿いを見ていくと堀跡があるようです。 |
高坂刑部大輔が居住したと伝えられる。高坂氏は平一揆の主要な構成武士団の一員で、応安元年(1368)平一揆の乱で川越氏と共に足利氏満に背き敗北し、応永23年(1416)上杉禅秀の乱では「白旗一揆着到状」に高坂御陣と記される。この時、高坂氏が居住した館が存在していたと見られる。戦国期、高坂刑部は後北条氏に仕え、永禄年間(1558-70)、後北条氏による松山城攻めの際、氏康が高坂に陣を張ったと伝えられる。江戸時代には加賀爪氏がこの地を1万石で領し陣屋を置いたが、元和元年(1615)家禄断絶となった。(『中世北武蔵の城』梅沢太久夫著、『埼玉の古城址』中田正光著、『日本城郭大系』新人物往来社発行 参照) |