松山城
別名 城山
所在地 埼玉県吉見町南吉見字城山
遺構等 曲輪、土塁、空堀、横堀、櫓台、井戸、碑、説明板
現状 山林(吉見百穴のすぐ北の山)
築城年 正慶2(元弘3、1333)
築城者 新田義貞
歴代城主 新田義貞、上田、北条
形式 丘城(比40m)
訪城日 2010/1 感想
【道案内】
城跡の地図
東武東上線「東松山駅」から東へ約1.5km、吉見百穴のすぐ南。国道407号と県道27号が交差する「松本町」信号を東へと県道27号に入ります。500m程東進して「市野川」を渡ってすぐを左折した右手の山が城跡です(吉見百穴はこの通りの左手)。城跡へは、岩室観音堂からか、城跡西南側(県道27号沿い)公園入口から登ります(写真の竪堀ではないので注意!)。道路余白に駐車するか、私は吉見百穴の見学後、吉見百穴に駐車したまま行きました。
岩室観音堂裏手の竪堀

【感想・メモ】
城跡は整備され見やすく歩きやすく、夏でも散策できます。郭も広く、木もかなり伐採されていて見通しが利きます。切れ味抜群の横堀と土塁に魅入りっぱなしでした。関東屈指の名城です。

物見櫓下(東)の空堀
正慶2年(元弘3、1333)、新田義貞が築城したといわれる。戦国初期の城主・上田氏は、扇谷上杉氏に属し、川越城の支城だった。北条氏の北侵により松山城も戦火を浴びるが、川越合戦後に上田氏は北条氏の傘下に入った。そして、北条氏家臣団の単位「松山衆」となり、北武蔵の武士団を統括した。しかし、松山城は戦略上の要地だったため、その後も北条氏と敵対勢力との間で争奪戦が行われた。豊臣秀吉が関東に攻めた際、松山城は他の多くの城と同様に戦わずして降伏した。天正18年(1590)関東に入った徳川家康は、松山城に松平家広を入れたが、家広が浜松に移った際、廃城となった。
【歴史】
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まつやまじょう