河越氏館 |
別名 | 河越館 | ||
所在地 | 埼玉県川越市上戸 | ||
遺構等 | 土塁、碑、説明板 | ||
現状 | 常楽寺〜西 | ||
築城年 | 平安〜鎌倉時代 | ||
築城者 | 河越重隆 | ||
歴代城主 | 河越 | ||
形式 | 平城 | ||
訪城日 | 2007/9/8 | 感想 | ○ |
お寺の入り口に字が薄れかかった標柱があり、お寺に説明板があります。このお寺の西側は空き地になっていますが、公園化の計画があるようです。この空き地の南西にも説明板があり、その西側に南北約200m、北西側には東西約80mもの土塁が残っています。これだけの立派な土塁が見られて満足します。 |
東武東上線「霞ヶ関駅」から北東へ約1.2km。入間川を「川越橋」で西へ渡り、渡り切って道が右折になったすぐ右手に「常楽寺」があります。このお寺から西にかけての一帯が館跡です。常楽寺に参拝者用駐車場があります。 |
常楽寺
かわごえしやかた |
河越館は、平安末期から南北朝中期にかけての約200年間、武蔵国で大きな勢力を誇った在地領主である河越氏の居館である。治承4年(1180)源頼朝が伊豆で挙兵すると、河越氏は初め敵対したが、後に御家人となり、平氏討伐軍に参戦した。河越重頼の娘は頼朝の弟・義経の妻に選ばれたが、義経と頼朝の仲が悪化したため、義経縁者ということで重頼らは滅ぼされ、河越氏の勢力は一時衰退した。鎌倉中期に入り、高野山に町石を建てた経重の頃、かつての勢力を回復し、鎌倉後期に館の中に常楽寺が開山された。応安元年(1368)、河越氏や高坂氏ら「平一揆」が河越館に立て篭もり鎌倉幕府に反旗を翻したが、あえなく敗れ、河越氏は政治の表舞台から姿を消した。戦国時代には、関東管領山内上杉氏が川越城の扇谷上杉氏に対抗するため、かつての河越館を含むこの周辺に陣所(上戸陣)を構えた。現在残る土塁は、その頃の遺構と考えられる。 |