金窪城
別名 金久保城、太琊城
所在地 埼玉県上里町金久保
遺構等 土塁、碑、説明板
現状 金窪城址公園、宅地
築城年 治承年間(1177-81)
築城者 加治家治
歴代城主 加治氏、畑氏、斎藤氏、武田氏
形式 平城
訪城日 2010/12 感想
神流川に臨む崖上に位置し、平安末期の治承年間(1177-81)に武蔵七党の一党である丹党から出た加治家治が築城したと伝えられ、元弘年間(1331-34)新田義貞が修築して家臣の畑時能に守らせたという。室町中期の寛正年間(1460-66)には斎藤実盛の子孫といわれる斎藤盛光が居城した。天正10年(1582)6月、滝川一益と北条氏邦の神流川の合戦で一族は討死し、城は焼失して斎藤氏は没落した。勝利した北条氏は金窪城を上州との境目の城として重要視し、鉢形城の支城としたが、天正18年、前田・上杉軍の前に鉢形城と共に落城した。徳川家康の関東入国後は武田信俊の所領となり陣屋が置かれたが、元禄11年(1698)孫信貞の時、丹波国へ転封となり陣屋も廃されたという。

参考資料
『中世北武蔵の城』梅沢太久夫著
『埼玉の古城址』中田正光著
『埼玉の中世城館跡』埼玉県教育委員会発行
現地説明板参照
【歴史】
金窪南城の北東約600mに位置し、金窪城址公園の向かい側に城址碑と説明板があり、その背後に土塁が一部残っています。
【感想・メモ】

【道案内】
城跡の地図

かなくぼじょう
JR高崎線「神保原駅」から北北西へ約1.8km。神保原駅北方約700mの国道17号「神保原北」信号を北へと県道392号へ900m程北西へ進んで右折します。350m程北上して左手に「萠美保育園」を過ぎ、更に70m程北上した次の路地を左折します。100m程西進すると右手に「金窪城址公園」があり、この付近一帯が城跡です。金窪城址公園に無料駐車場があります。
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