岩槻城
別名 岩付城、白鶴城、浮城
所在地 埼玉県さいたま市(岩槻市)岩槻区太田3丁目
遺構等 曲輪、土塁、横堀、水堀、移築門、碑、説明板
現状 岩槻城址公園
築城年 文明10年(1478)
築城者 成田自耕斎正
歴代城主 成田氏、後北条氏、大岡氏
形式 平城
訪城日 2009/7 感想
岩槻城址公園があるのは新曲輪と言って、豊臣秀吉の小田原の役に備えて築いた部分です。ここに移築城門2つや土塁、横堀が残っていますが、全体に普通の公園といった感じです。本丸跡は公園北方の県道2号沿いにあるスーパー付近で、通りの向かい側にあるGSに石碑と説明板があるそうです。二の丸、三の丸も開発で壊され遺構はありませんが、2号沿いの消防署に三の丸の石碑がありました。他に、「時の鐘」も街中(県道2号「渋江」交差点を東南へ入り、100m程進んだ左手)にあります。
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【感想・メモ】

東武野田線「岩槻駅」から東へ約1.7kmの岩槻城址公園一帯が城跡です。公園に無料駐車場が完備されています。
【歴史】
文明10年(1478)、忍城主成田顕泰の父・成田自耕斎正が築城した。戦国時代には何回も大改修され、戦国末期には大幅に拡張された。本丸・二の丸・三の丸などの城の中心部とその周囲を取り囲む沼の北岸に位置する新正寺曲輪、南岸に位置する新曲輪の3ブロックから構成され、更に城の西側及び南側一帯には武家屋敷と町屋・寺社地などからなる城下町が形成され、その周囲を巨大な土塁と堀が取り囲んでいた。岩槻公園付近は新曲輪部分にあたり、1580年代に豊臣政権との軍事対決に備え、その頃岩槻城を支配していた小田原北条氏が岩槻城の防御力を強化するために設けた曲輪と考えられ、新曲輪・鍛冶曲輪の2つの曲輪が主郭部南方の防御を固めていた。小田原北条氏滅亡後、徳川家の譜代家臣・高力清長が2万石で岩槻城に入り、江戸時代には江戸北方の守りの要として重要視され、有力譜代大名の居城となった。江戸中期に徳川家重の側用人大岡忠光が入り、以後大岡氏が続いて明治を迎えた。(現地説明板参照)
【道案内】
城跡の地図

いわつきじょう