忍城 |
水堀越しに見る天守&橋&門にしだれ柳は、風情があっていい感じでした。周辺を歩いてみるとちょっとした水路があり、これが水堀の遺構だとか。さりげなくひっそりと残っている水堀や土塁が気に入りました。また、街中を散策するとあちこちに門跡の石碑があるので、マップ片手に歩いて回ると良いでしょう。 |
堀跡
別名 | 亀城 | ||
所在地 | 埼玉県行田市本丸 | ||
遺構等 | 模擬御三階櫓、曲輪、水堀、土塁、石垣、碑、説明板 | ||
現状 | 郷土博物館、宅地 | ||
築城年 | 延徳2(1490) | ||
築城者 | 成田下総守親泰 | ||
歴代城主 | 成田、松平、阿部、松平 | ||
形式 | 平城 | ||
訪城日 | 2009/7 | 感想 | ○ |
おしじょう |
秩父鉄道「行田市駅」から南西へ約900m。行田市役所から250m程西進した左手に「郷土博物館」があります。この付近一帯が城跡で、博物館に無料駐車場が完備されています。 |
延徳2年(1490)、山内上杉氏豪族・成田親泰が築城した。永禄2年(1559)、上杉謙信の関東進出の際、城主・成田長泰は謙信に降伏したが、永禄4年、謙信にお咎めを受けたため北条氏に帰順した。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、城主・成田氏長は小田原城に篭り、残った士卒・農民ら3千が篭城した。敵将・石田三成は水攻めを考え、延べ28kmもの「石田堤」を築いたが、篭城兵の細工で決壊し、逆に三成の兵270名余が溺死した。同年、家康の関東入封後は松平家忠が入城し、文禄元年(1592)家康の四男・松平忠吉が10万石で入封したが、慶長五年(1600)、尾張清洲城へ転封となった。その後、城主が何回か入れ替わり、文政6年(1823)、松平下総守忠堯が入り、4代続いた後、明治を迎えた。 |