沼田城 |
公園内には、旧生方家住宅や旧土岐邸洋館などもありますが、鐘楼が高くそびえ立っていて目立ちます。すっかり公園化され、イマイチかなぁと思いながら歩いていたら、意外に遺構が残っていました。本丸跡などの表示や説明があるし、土塁がしっかとあちこちにあるし、goodな石垣もあります。石垣に見とれて、ついつい石垣は一周しちゃいました。特に、石垣と堀の間から鐘楼が見える感じが、なかなかイケてます。また公園の周辺を歩いてみたら、所々に外堀が残っていました。もっともっと時間を割いて周辺を歩き回ったら、遺構ももっと発見できたに違いない! |
「JR沼田駅」から北東約700m。国道120号「公園入口」信号から500m程北上した沼田公園が城跡です。公園のあちこちに駐車場がありました。 |
三の丸土塁
別名 | 倉内城 |
所在地 | 沼田市倉内 |
遺構等 | 曲輪、堀、土塁、櫓台、石垣、碑、説明板 |
現状 | 公園 |
築城年 | 天文初期(1540)頃 |
築城者 | 沼田顕泰 |
歴代城主 | 沼田 |
形式 | 崖端城 |
訪城日 | 2008/3/30 |
天文初期(1540)頃、沼田氏12代・沼田顕泰が築城した。永禄3年(1560)上杉謙信に攻略され、謙信の関東経略の拠点となるが、天正6年(1578)謙信死後、北条氏政が支配し、天正8年には真田昌幸が入城した。この頃、沼田氏は滅亡した。天正10年、武田氏が滅亡し、織田信長の家臣・滝川一益が、甥の儀太夫益氏を沼田城に入部させたが、本能寺の変により滝川一益らは伊勢へ撤退し、城は真田氏に返還された。真田昌幸は嫡子・信之にこの城を与えた。天正17年、豊臣秀吉は北条氏直を上洛させるため、沼田を北条氏に渡すことを昌幸に承諾させ、北条方は猪俣邦憲を城代に置いた。しかし、邦憲は昌幸方に残った名胡桃城を略奪した為、秀吉は激怒し、翌天正18年、小田原征伐で北条氏を滅亡させ、沼田城は真田信之に返された。徳川家康に従った信之は、関ヶ原合戦以後、昌幸の旧領をすべて安堵された。その後信濃松代へ移ったが、沼田は安堵され、沼田真田氏が続いたが、天和元年(1681)幕府は悪政を理由に改易し、城は解体された。 |
ぬまたじょう |