大岩山砦 |
登山道はハイキングコースとして整備され、賤ヶ岳まで歩く人が多いです。登り始めて7分程で岩崎山砦が登山道の東側にあります。大岩山砦には中川清秀の墓があり、それに関する説明板があります。お墓の背後や砦に入ってすぐの両側には土塁があり、東側真ん中付近は虎口のような雰囲気です。北側尾根に堀ぐらいあるかと思って見に行きましたが、何もありませんでした。 |
別名 | |
所在地 | 余呉町下余呉 |
遺構等 | 曲輪、土塁、竪堀、説明板 |
現状 | 山林 |
築城年 | 天正11(1583) |
築城者 | 中川清秀 |
歴代城主 | 中川清秀 |
形式 | 山城(陣城)(比125m) 登山口から砦まで約25分 |
訪城日 | 2007/11/10 |
おおいわやまとりで |
JR北陸本線「余呉駅」から南南東へ約1.5km。余呉駅南から県道33号で500m程東進すると、道路左手に観光者用駐車場があります。車はここに停め、道路を渡った南に「賤ヶ岳登山口」の案内があるのでここから登ります。賤ヶ岳方面へ登っていくと、途中「中川清秀の墓」や「大岩山」の表示があるので、そちらへと左へ入ると大岩山砦です。 |
天正11年(1582)賤ヶ岳合戦で秀吉に味方した茨木城主・中川清秀が陣を張った。この陣地は賤ヶ岳合戦で最初に戦のあった陣地である。柴田勝家の部下で、行市山に布陣した金沢城主・佐久間盛政は、夜陰に乗じ集福寺坂より塩津を経て、権現の峠を越え川並に至り、余呉湖の南岸を迂回して大岩山砦を奇襲した。中川清秀はよく奮戦したが、全員この地で討死した。勝ち誇った佐久間の軍勢は柴田勝家の帰参の命に背き、余勢をかって賤ヶ岳の砦に進撃した。この報を知った豊臣秀吉は大垣より駆けつけ賤ヶ岳合戦となり、秀吉軍が勝利し、柴田勝家は滅亡した。中川家はその後、豊後岡城へ移封となったが、五代の嫡孫久恒氏が霊を供養するため、この地に墓碑を建立した。 |