城跡の地図
大和郡山城
別名 犬伏城
所在地 大和郡山市城内町
遺構等 復元櫓・門、天守台、曲輪、土塁、石垣、堀
現状 郡山城跡公園
築城年 天正8(1580)
築城者 筒井順慶
歴代城主 筒井、豊臣、水野、松平、本多、柳沢
形式 平山城
訪城日 2007/7/16
【道案内】


【感想・メモ】
やまとこおりやまじょう
【歴史】
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近鉄橿原線「近鉄郡山駅」から北へ約500m。国道24号「下三橋町」信号から800m程北上した信号を左折して、600程西進するとJRを陸橋で越え、更に900m程西進して近鉄も越えます。近鉄を越えてすぐ左手(南)が城跡となり、郡山城梅林門(追手門)前のところに10台程度の無料駐車場があります。
城跡は近鉄によって分断されており、市役所がある付近は三の丸です。主郭付近は公園となり、柳沢神社の背後には天守台石垣が残り、堀を挟んだ東側には櫓や追手門が復元されています。天守台石垣は転用石が多く、墓石や羅生門の石まで使われています。このお城は、あちこちに水堀が残っていてカッコいいです。水堀のすぐ南西にある「永慶寺」は柳沢氏の菩提寺で、山門は城門を移築した現存門です。
永禄2年(1559)松永久秀が信貴山城に入り、幼少の当主・順慶となる筒井家は圧迫されたが、元亀2年(1571)松永軍を撃退した順慶は、その後織田信長に臣従し頭角を現した。松永久秀が憤死すると、天正8年(1580)順慶は信長より大和一国20万石を与えられ、筒井城から郡山城へ移り、城を大改修した。しかし、修築途中で2代定次は伊賀上野城へ移封となり、天正13年に豊臣秀長が、大和・紀伊・和泉100万石の太守として入城した。秀長死後、養子秀保が嗣ぐが文禄4年17歳で死去し、大和大納言家は断絶した。その後、増田長盛が郡山20万石で入封したが、関ヶ原合戦で西軍に属し領地没収となった。元和元年(1615)、三河刈谷城主・水野勝成が6万石で入封したが備後福山に移り、その後、松平忠明が大坂城から12万石で入封し、本多・松平・本多氏と替わり、享保9年に甲府城主柳沢吉里が15万石で入封した。以後、柳沢氏が6代続き明治を迎えた。