多聞城 |
別名 | 多聞山城 | ||
所在地 | 奈良市多聞町 | ||
遺構等 | 土塁、空堀、碑 | ||
現状 | 若草中学校 | ||
築城年 | 永禄3(1560) | ||
築城者 | 松永久秀 | ||
歴代城主 | 松永久秀 | ||
形式 | 平山城(比30m) | ||
訪城日 | 2010/2 | 感想 | △ |
たもんじょう |
近鉄奈良駅から北へ1.2km。国道369号「転害門前」信号を西へと県道104号に入り、200m程西進した路地を右折し(若草中学校の案内あり)、300m程北上すると正面に「若草中学校」があります。この中学校から西の聖武天皇陵付近にかけてが城跡です。中学校の駐車場を利用させて頂きました。 |
中学校へ入ってすぐに城址碑があり、近くに墓地もあります。車で学校の上まで上がると東側へ渡る橋がありますが、この下の道路は堀切でした。学校の西側の山には土塁と空堀が残っているようですが、住宅が密集していて入れる場所がなかったです。また、佐保川は外堀の役目を果たしていたようです。学校の事務所に申し出ると、多聞城の小冊子を購入できます。 |
永禄3年(1560)、松永久秀が築城した。久秀は足利幕府管領・細川氏の被官である三好氏の家臣だったが、三好氏が台頭して畿内を支配しだすと、久秀も大和一円に勢力を誇った。永禄10年、久秀の大和侵攻によって大和北方から追われた筒井順慶が、三好三人衆と共に多聞城を攻めたが、久秀は東大寺大仏殿を焼討ちするなどして撃退した。永禄11年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると久秀は信長に属し、大和一国を安堵された。しかし、元亀2年(1571)久秀は辰市の合戦で筒井順慶に大敗し、順慶が信長に帰順したため久秀の勢力は衰退した。天正元年(1573)、久秀は信長に多聞城を明け渡し信貴山城に退いた。多聞城には信長臣下の明智光秀、佐久間信盛らが城番となったが、天正4年、信長が安土城を築いたため、大和一国は筒井順慶に与えられた。翌天正5年、信長の石山本願寺攻めの時、久秀は反旗を翻したため信長軍に攻められ、信貴山城は落城した。また、多聞城は信長の命を受けた筒井順慶によって破却された。 |