書写坂本城
別名 坂本城、堀ノ城、御構ノ御所
所在地 兵庫県姫路市書写
遺構等 土塁、横堀、碑、説明板
現状 宅地
築城年 南北朝時代
築城者 赤松則村(円心)
歴代城主 赤松氏、山名氏
形式 平城
訪城日 2010/11 感想
南北朝時代に、赤松則村(円心)が築いたといわれる。足利尊氏・直義兄弟の権力抗争である観応の擾乱(1350-52)で、尊氏がこの坂本城に布陣したとある。室町時代には赤松惣領家・赤松満祐が播磨国守護所として支配の中心を坂本城に置いた。嘉吉元年(1441)、赤松満祐が将軍足利義教を殺して(嘉吉の乱)坂本城へ引き上げ、室町幕府の追討軍との戦いで各地で敗戦となった赤松軍は坂本城へ帰ったが、山名持豊(宗全)勢が坂本へ押し寄せ、城は落城し赤松氏は滅んだ。嘉吉の乱後、坂本城には山名持豊が入り播磨の拠点としたが、応仁の乱後は山名氏と復興した赤松氏との間で坂本城攻防戦が繰り返された。文明元年(1469)、赤松政則は置塩城を築き本城としたのと、長享年間(1487-89)頃、交通の要衝が御着城に移ったため、坂本城は廃城となったと思われる。しかし、大永2年(1522)山名政豊の子・誠豊が播磨に侵入して書写山の浦上氏を攻撃したが敗退している。

参考資料
『ひょうごの城紀行 下』(朽木史郎・橘川真一 編著)神戸新聞総合出版センター発行
『日本城郭大系』新人物往来社発行
【歴史】
書写山の南麓、天神山の東麓に位置し、東西170m、南北170mの規模だったようですが、今では宅地開発でほとんど壊され、道路沿いに石碑と説明板、そして南西側の土塁と堀の一部が残っています。
【感想・メモ】

【道案内】
城跡の地図
JR姫新線「余部駅」から北北東へ約2.1km。天神山の北東500mにある桜池の道路を挟んだ南東。兵庫県立大学の南「県立大工学部前」信号を南へ入り、300m程進むと左手に桜池がありますが、この池を通り過ぎたすぐ道路右手付近一帯が城跡です。

しょしゃさかもとじょう
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