上月城
別名
所在地 佐用町(上月町)上月
遺構等 曲輪、堀切、竪堀、説明板
現状 山林
築城年 鎌倉時代末期(1300年代)
築城者 上月次郎景盛
歴代城主 上月、赤松
形式 山城(比100m)
登城口から主郭まで約10分
訪城日 2008/4/27
鎌倉末期(1300年代)、播磨を支配した赤松氏一族の上月次郎景盛(宇野播磨守入道山田則景の息)が、太平山(樫山)に築城したのが始まりで、景盛、盛忠、義景、景満と続いたいづれかの時、本城を谷を隔てた南の荒神山に移した。これが現在の上月城跡だ。赤松氏は播磨・備前・美作三カ国の守護で大勢力を誇っていたが、嘉吉の乱(1441年)で没落し、播磨は山名氏が支配した。その後、赤松政則が赤松氏を再興し播磨を回復するが、山名、赤松、尼子等が攻防を繰り返した。天正5年(1577)織田信長は毛利攻めを羽柴秀吉に命じ、毛利方の佐用福原城を攻略し、高倉山に本陣を置き1万5千の軍勢で上月城を包囲し、救援に駆けつけた宇喜田直家の軍を退け、12月3日落城、政範は自決して果てた。秀吉は尼子勝久、山中鹿之助に上月城を守らせたが、宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多は上月十郎景貞に守らせたが再び秀吉軍により落城、景貞は敗退中櫛田の山中で自刃した。再び尼子勝久、山中鹿之助が入城したが、毛利軍は山陰、山陽の両道より3万の軍勢で天正6年4月18日、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ高倉山に陣を進めたが、三木城攻略の為、6月26日高倉山より兵を引いた。上月城は孤立し7月5日勝久は毛利氏に降伏し開城自刃した。山中鹿之助は備中の毛利輝元の陣へ護送途中、高梁川の合の渡しで斬殺された。この上月合戦の後、城は廃城となった。
【歴史】
5〜6分登ると東端の郭に出て、更に2〜3分で堀切が見えます。ここから郭を2つ経て主郭に着きます。主郭には供養塔や説明板があります。ここから西側に郭が続き、その先に堀切が2本あります。下山道で下りきった所に追悼碑があります。全体に整備され見やすく、分かりやすいお城です。
【感想・メモ】
JR姫新線「上月駅」から南へ約800m。上月駅東方の国道179号と国道373号が交差する「上月三叉路」信号から国道373号で500m程南下して右折し、150m程南下して右折して100m程西進すると「上月歴史資料館」があります。この資料館の前方(南)が登城口で案内板があります。上月歴史資料館に駐車可能です。
【道案内】
城跡の地図

主郭

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主郭北東方の堀切

こうづきじょう