鎌倉末期(1300年代)、播磨を支配した赤松氏一族の上月次郎景盛(宇野播磨守入道山田則景の息)が、太平山(樫山)に築城したのが始まりで、景盛、盛忠、義景、景満と続いたいづれかの時、本城を谷を隔てた南の荒神山に移した。これが現在の上月城跡だ。赤松氏は播磨・備前・美作三カ国の守護で大勢力を誇っていたが、嘉吉の乱(1441年)で没落し、播磨は山名氏が支配した。その後、赤松政則が赤松氏を再興し播磨を回復するが、山名、赤松、尼子等が攻防を繰り返した。天正5年(1577)織田信長は毛利攻めを羽柴秀吉に命じ、毛利方の佐用福原城を攻略し、高倉山に本陣を置き1万5千の軍勢で上月城を包囲し、救援に駆けつけた宇喜田直家の軍を退け、12月3日落城、政範は自決して果てた。秀吉は尼子勝久、山中鹿之助に上月城を守らせたが、宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多は上月十郎景貞に守らせたが再び秀吉軍により落城、景貞は敗退中櫛田の山中で自刃した。再び尼子勝久、山中鹿之助が入城したが、毛利軍は山陰、山陽の両道より3万の軍勢で天正6年4月18日、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ高倉山に陣を進めたが、三木城攻略の為、6月26日高倉山より兵を引いた。上月城は孤立し7月5日勝久は毛利氏に降伏し開城自刃した。山中鹿之助は備中の毛利輝元の陣へ護送途中、高梁川の合の渡しで斬殺された。この上月合戦の後、城は廃城となった。 |