要害山城
別名 要害城
所在地 山梨県甲府市上積翠寺町
遺構等 曲輪、土塁、堀切、竪堀、石垣、説明板
現状 山林
築城年 永正17(1520)
築城者 武田信虎
歴代城主 武田
形式 山城(比260m)
登城口から主郭まで約35分
訪城日 2009/3 感想
【道案内】
城跡の地図
登城口の地図
武田神社(躑躅ヶ崎館)から県道31号を2.5km程北東へ進んで「積翠寺温泉」へ行きます。この「ホテル要害」の東側(ホテル要害へと橋を渡ったすぐ左手)が登城口で案内板があります。車は橋の手前のホテル駐車場を利用させて頂きました。登城道は整備され、要害山を目指します。

登城口

東端の堀切

登っていく途中で躑躅ヶ崎館が見下ろせたり、竪堀や竪土塁なども見られますが、土塁や石垣を伴った門跡が見応えたっぷりで、門跡は8つもあります。主郭は東西80m・南北25m程もあり土塁が巡っていて、「武田信玄公誕生之地」の石碑があります。その先(東)の堀切には石積みがあって変わっています。更に先にも竪堀や堀切、石垣があり、とても素晴らしいお城です。この南東の尾根にある熊城へも行くと良いでしょう。
TOPページへ
【感想・メモ】

二の門跡


ようがいさんじょう
永正17年(1520)、甲斐国を統一した武田信虎が前年に築いた躑躅ヶ崎館の詰城として築城した。以後新府城へ移るまでの約60年間、躑躅ヶ崎館と共に武田氏の本拠地となった。大永元年(1521)駿河今川氏の福島正成が侵攻した際、信虎の正室はこの要害山城に避難し嫡子晴信(信玄)を産んだ。信玄死後の天正4年(1576)、長篠合戦に敗れた武田勝頼はこの城の修築を命じている。天正9年、勝頼は韮崎に新府城を築き本拠地を移した。天正10年、織田信長のために武田氏が滅亡したが、本能寺の変で信長が死去すると武田氏の遺領を巡り徳川氏と北条氏が争った(天正壬午の乱)。和議により甲斐国は徳川の支配となり、駒井右京、日向玄東斎・同半兵衛らが城番を務め、また加藤遠江守光泰が修築した。慶長5年(1600)、城は廃城となった。(『日本城郭体系』参照)
【歴史】