城跡の地図
与板城

堀切
別名
所在地 新潟県長岡市与板町城山
遺構等 曲輪、空堀、土塁、碑、説明板
現状 山林
築城年 天正年間(1573-91)
築城者 直江兼続
歴代城主 直江
形式 山城(比85m)
訪城日 2003/7/27
【歴史】
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【道案内】
北東麓の「八坂神社」(神社前に城の説明板有)か、北麓の赤い鳥居から登れます。
本与板城周辺を支配していた飯沼氏が、永正4年(1507)勃発した、越後守護代の長尾為景・越後守護職の上杉房能の争い(永正の乱)の際、上杉氏に味方して長尾為景軍に攻められ滅亡した。その後、長尾為景の家臣・直江実綱がこの地を支配した。天正6年(1578)、上杉謙信が急死し、家督相続の争いである御館の乱が勃発した。これは、謙信の養子・上杉景虎(北条氏康7男)と、同じく謙信の養子・上杉景勝(長尾政景次男)との争いで、この時本与板城主だった直江信綱は、上杉景勝に味方した。御館の乱は景勝が勝利したが、戦功を巡る家臣達の争いで直江信綱は殺された。信綱は実子がなく、直江家断絶を防ぐため、景勝は樋口兼豊の子・樋口与六(後の直江兼続)を直江家の跡継ぎとした。直江兼続は本与板城の近くに新しく城を築いた。これが与板城である。慶長3年(1598)、上杉景勝の会津移封に伴い、直江兼続は米沢へ移封となった。そのため、城は廃城となった。
登城道は整備されていますが、少し横へそれるとすごい薮で、入り込めない所がありました。土塁、空堀、堀切などはよく分かりますが、デジカメで撮るとただの藪。連郭式山城はで、本丸手前には赤い鳥居があり、本丸には社や城跡碑、縄張図つきの看板もありました。また本丸と二の丸の間の堀切が特にすごく、幅15m、深さ6m位はあったかと思います。そのまた南西に連なる三の丸との間にも堀切が。更にその奥には千人溜りがあります。また、与板町東与板の「西本願寺別院」に移築城門(大手門)があります。
【感想・メモ】

移築門
よいたじょう