本与板城
室町中期頃、越後守護上杉氏の家臣・飯沼氏が築城した。もともとは、この城を与板城と言った。永正4年(1507)勃発した、越後守護代の長尾為景・越後守護職の上杉房能の争い(永正の乱)の際、上杉氏に味方して長尾為景軍に攻められ滅亡した。その後、長尾為景の家臣・直江実綱がこの地を支配した。天正6年(1578)、上杉謙信が急死し、家督相続の争いである御館の乱が勃発した。これは、謙信の養子・上杉景虎(北条氏康7男)と、同じく謙信の養子・上杉景勝(長尾政景次男)との争いで、この時本与板城主だった直江信綱は、上杉景勝に味方した。御館の乱は景勝が勝利したが、戦功を巡る家臣達の争いで直江信綱は殺された。信綱は実子がなく、直江家断絶を防ぐため、景勝は樋口兼豊の子・樋口与六(後の直江兼続)を直江家の跡継ぎとした。直江兼続は本与板城の近くに新しく城を築いた(与板城)。このため、それまでの城を本与板城と呼び、兼続が築城した城を「与板城」と区別している。慶長3年(1598)、上杉景勝の会津移封に伴い、兼続も同行し米沢へ移封となった。そのため、与板城、本与板城ともに廃城となった。
【歴史】
登城道が少し藪ですが、堀切・空堀・土塁などなど、見応えあります。主郭を中心に帯曲輪があり、堀切がかなり深いのなんのって。本丸には城跡碑が2つもあり、縄張図付の看板もありました。この看板には、「農協事務所に城跡のしおりが有るので、ご自由にお持ちください」と書いてありましたが、下山後、すぐ側の農協へ寄ったら休みでした。この城は縄張が結構単純で、曲輪・土塁・堀切がはっきりと分かりやすいです。
【感想・メモ】
図(現地説明板より)
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【道案内】
登城口の地図
国道403号で信濃川を「与板橋」で南へと渡りきった「与板橋西詰」信号で国道は南へ折れ曲がっていますが、ここを直進します。次の「本与板」信号も直進し、200m程行くと、突き当たりに「八幡神社」があり「本与板城」の説明板があります。ここから登り出します。
本丸と城址碑
別名
所在地 長岡市与板町本与板
遺構等 曲輪、空堀、土塁、碑、説明板
現状 山林
築城年 室町中期
築城者 飯沼氏
歴代城主 飯沼、直江
形式 山城(比85m)
訪城日 2003/7/27

もとよいたじょう