県道349号から普済寺へと南へ入る角に大場沢会館があり、ここに駐車可能で看板やパンフが置いてあります。ここから200m程西進して左折すると雷神社への参道(登城口1)があります。また、普済寺からも登れます(登城口2)。 |
【感想・メモ】 |
私は普段、雷神社から登り普済寺へ下ります。雷神社の奥(東)が主郭で、鳥瞰図が描かれた看板があります。神社から西へ進むと大堀切があり、この南側から東にかけて「ゴボウ峰」と呼ばれる畝状阻塞が300m程も続き圧巻です。しかも、この竪堀の先が二股に分かれている所もあります。主郭東と畝状阻塞の東端に堀切があり、この付近の畝は更に高くなっています。この東の寺山には土塁が巡り東先端には先程より規模が小さいものの畝状阻塞があります。こんな大して高くない山で、ここまでの畝状阻塞が見られるとは!かなり楽しめるお城です。 |
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【歴史】 |
築城時期は不明だが、鎌倉初期に小泉庄に入部した本庄氏庶流の鮎川氏が城主だった。鮎川氏は戦国期には宗家本庄氏と並ぶほどに成長し、天文8年(1539)鮎川清長は同族の小川長資と共に本庄城を攻め、本庄房長を敗走させた。その後、房長の子・繁長と清長は和睦したが、永禄11年(1568)武田信玄の調略により繁長が上杉謙信に叛いて本庄城に籠城したため、清長の子・盛長は謙信に与して本庄城を攻めた。この時、大葉沢城は繁長軍に攻められ落城した。慶長3年(1598)上杉景勝の会津移封に伴い、大葉沢城は廃城となった。 |
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寺山の土塁 |
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西端の大堀切 |
東の大堀切 |
畝状竪堀 |
寺山の畝状竪堀 |
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