知久平城


空堀

城跡の地図
JR飯田線「駄科駅」から東北東へ約1km。下久堅小学校周辺から北側一帯にかけてが城跡で、小学校北側の「下久堅保育園」前に説明板があります。更に100m程北上した左手に「斎藤農園」駐車場があり、ここにも違う説明板があります。車は道路余白に停めました。
【道案内】

殿様井戸

別名
所在地 長野県飯田市下久堅知久平
遺構等 曲輪、土塁、空堀、井戸、説明板
現状 下久堅小学校、畑、宅地
築城年 鎌倉時代
築城者 知久氏
歴代城主 知久、菅沼定利
形式 丘城
訪城日 2011/7 感想
【感想・メモ】
ちくだいらじょう
【歴史】
小学校の南西にある諏訪神社やその南から城域だったようで、小学校や保育園も城域です。あちこちに本丸まで○mという標柱が立っており、それに従うと一巡できるようになっています。土塁や空堀が散在していますが、保育園の西側には立派な空堀が残っています。本丸は農園や宅地になっていますが、土塁が残っています。その北側の墓地や社も曲輪です。本丸から北西の民家には殿様井戸が残っています。
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鎌倉時代始めに知久氏が築城した。武田信玄が東海地方へ進軍した際、知久氏はここを出城とし、神之峰城へ移った。知久氏は諏訪大社の神氏系の一族で、当初上伊那郡箕輪町上の平に住し、この地には地頭の任を受け居を構えたものである。天正10年(1582)武田氏滅亡により、徳川家支配地として菅沼小大膳定利が居城し、城を整備した。菅沼氏は三河国設楽郡田峯城主の一族で、天正18年上州吉井へ所替までこの地を支配した。城はその際廃城となったが、400年弱の間、この地の政治経済の中心だった。