田峯城 |
別名 | |
所在地 | 設楽町田峯 |
遺構等 | 復元御殿・櫓・城門、曲輪、堀、碑、説明板 |
現状 | |
築城年 | 文明2(1470) |
築城者 | 菅沼定信 |
歴代城主 | 菅沼 |
形式 | 山城(比50m) |
訪城日 | 2004/12/18 |
だみねじょう |
田峯城縄張図 原図:石川浩治氏 愛知県中世城館跡調査報告書V(東三河地区)より |
国道257号「田峯」信号を南へと県道389号に入り、200m程南下して右手前方向へ右折します(田峯城への案内が道路に出ています)。あとは道路に案内があるのでそれに従えば左手に御殿が見えます。御殿を通り過ぎた左手に駐車場があります。 |
駐車場から眺める御殿がカッコいいです。空堀も橋が架かっているもののかなり立派。御殿から先へ入るのは有料となり入城時間に制限があるので気をつけてください。復元櫓や城門は中に入らないと見られないです。 |
文明2年(1470)、菅沼定信が築城した。菅沼氏は作手村菅沼から興ったため菅沼と称し、奥三河へ勢力を伸ばすために田峯に城を築いた。田峯菅沼は4代目・定継まで今川氏に属したが、氏親が没すると松平氏についた。ところが清康が守山崩れで暗殺された翌年である弘治2年(1556)布里において弟・定直と戦い勝利するも今川義元の軍勢に戦死した。永禄3年(1560)桶狭間の戦いで義元が死ぬと、松平元康は今川と離れ織田氏と和した。田峯の定忠は元康に従ったため、翌年田峯だけでなく武節・新城も領した。元亀2年(1571)武田信玄の誘いに乗り武田氏に属したが、天正3年(1575)長篠の戦いで勝頼が負け退却する際、田峯城へ入ろうとしたが、留守役の叔父・定直や重臣・今泉道善らの反逆にあい入城できなかった。(そのため武節城へと逃れる)天正4年、定忠は田峯城を急襲し、定直や今泉らを討った。天正10年勝頼が天目山で死ぬと定忠も信濃国伊那知久平において牛久保城主・牧野康成と戦い討死した。 |
復元御殿 |