【道案内】 |
城跡の地図 |
登城口の地図 |
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JR山陰本線「石見福光駅」から南東へ約2km。国道9号と県道32号の交差点から国道9号を150m程西進し、左手のG.S.の先を左折します(城の説明板有)。すぐの福光川を古市橋で渡った左手にお城の説明板があり、ここから左手にある白いコンクリート遊歩道が登城口です。車は付近の余白に停めました。 |
【感想・メモ】 |
コンクリートの遊歩道で南東へと山裾へ進み、そこから山へ入ります。「不言城址登山道」の案内が要所にあり、あちこちに露出した岩を見ながら整備された道を登ります。東から西に主郭、二郭、三郭が並び、主郭北東には土塁があります。途中の番所跡(標柱有)には石垣があります。 |
【歴史】 |
築城年は不詳だが、もともとは福光氏の居城だった。永禄2年(1559)、石見地方に侵攻した毛利元就は川本温湯城の小笠原長雄攻めに功績のあった吉川経安(石見吉川9代目)に福光氏の所領を与えた。そこで、吉川経安は嘉暦3年(1328)より約200年にわたり拠点としていた殿村城から物不言城に移り、改修して居城とした。永禄4年、毛利氏に背いた福原隆兼がこの城を攻めたが、経安・経家父子により撃退した。その後天正2年(1574)に経家が家督を継いだが、秀吉の因幡攻めの際、鳥取城に入り、籠城の末、城兵や城に避難した民衆の助命を条件に自刃した。その後も物不言城は吉川氏の所領だったが、慶長6年(1601)、経家の子経実は吉川本家の家老として迎えられ、岩国に移住したため物不言城は廃城となった。 |
【参考資料】 |
『島根県中近世城館跡分布調査報告書(石見の城館跡)』島根県教育委員会発行
『山陰の城館跡〜攻防の跡をたずねて〜』山陰史跡整備ネットワーク会議(小冊子) |